蒼穹を往く歌声     15



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空を見上げてもそこには当然のように何もない。

晴れ渡った空と白い雲があるだけで、周りには他の船も島も鳥の姿すら見当たらなかった。

「拓深いい加減にしろ」

声を尖らせるイスハークが苛立たしげに拓深の腕を引いた。

痛くは無かったが身体がガクンと揺れる。

イスハークを怒らせたくはなく、ここは彼に従うべきで、普段の拓深ならすぐに歌声など放っておいてイスハークの元へ行っただろう。

けれど、徐々にそして確実に大きくなるその美しい歌声からなかなか気を逸らす事が出来なかった。

「拓深」

更に苛立ちを募らせるイスハークの怒声に、拓深がようやく彼を振り返った時である。

「・・・ぁ」

その頬に、一滴の雫を感じた。

一滴を知れば、二滴三滴と次々と降り注ぎ、雫はあっという間に雨と名前を変える。

「雨だ、拓深、中入っていろ」

「でも・・・」

空は相変わらず綺麗な青空のままだ。

けれど雨脚はどんどん強くなり、豪雨と呼んで支障がないまでになっている。

そして、そんな中でもあの美しい歌声が止まる事はなかった。

むしろ雨音や風音よりも強く、まるでその中心で奏でられているかのような不思議な印象すら与える。

下の甲板では船員達が大急ぎで何やら船の作業に取り掛かっており、船員の一人が叫んだ声が風に乗り拓深へ届いた。

「嵐だ。こりゃぁセイレーンの嵐だ」

「・・・セイレーン?」

豪風に波が荒れ一際大きく船が揺れたかと思うと、よろけそうになった拓深の身体をイスハークがすかさず抱き寄せた。

雨風にも動じた様子のないイスハークは、もはや拓深を船内へ入れる事を諦めたのだろう。

しっかりと拓深の腰を抱き安定を与えると、彼もまた拓深と同じく豪雨の中晴れ渡る空を見上げた。

「セイレーンは海の魔女の名だ。今みたいに、空は晴れているが突然の嵐となる現象を『セイレーンの嵐』と呼ぶ。海の魔女を怒らせたんだ、とな」

「魔女が、居るの?」

「そんなモノ居るわけが無いだろう。船乗りに伝わるただの伝承だ」

「・・・」

海の魔女の嵐。

イスハークはただの伝承だというが、この歌声は、その魔女のものなのかも知れないと感じた。

美しくて、どこか悲しくも聞こえる歌声。

腰を抱くイスハークに身体を預け、拓深は空を見上げたまま瞼を閉ざした。

視界が闇となり、音だけが世界のすべてと成る。

すると不思議と、雨音や風音それから船員達の作業をする音もどんどんと遠ざかってゆき、歌声だけが残された。

歌詞は聞き取れない。

その為歌の意味も解らない。

けれど拓深は、導かれるかのように唇を開いた。

「───・・・・」

喉の奥から競り上がるものを吐き出す。

拓深の意思とは無関係に放たれたのは、拓深自身聞いた事も無い歌であった。

そもそもこの船に来るまで音楽に触れた事のない拓深だ、歌というものを歌った事もなかった筈だというのに、その歌は唇が勝手に動き歌わせてくれる。

「──拓深、拓深?」

突然歌い出した拓深に驚いたのだろう。

イスハークは拓深の肩を揺すり怪訝そうにしていたが、拓深はそれでも歌う事を止めなかった。

閉ざしていた瞼を開き、豪雨を降らす青空を見上げる。

大荒れの波に翻弄する船をあざ笑うかのようにカラリと晴れた空を見つめ、口の中に雨水が入る事も構わず拓深は歌い続けた。

──すると、拓深が顔を上げて程なくして、激しかった風と雨は収まりを見せ始めたのである。

平行するように波も徐々に穏やかさを取り戻してゆき、そしてあの歌声も遠くへと消えていった。

「・・・ぁ」

ただ偶然雨が上がっただけかもしれない。

けれど、あの歌声と嵐が無関係でないとだけははっきりと解った。

「拓深、今のは何だ」

「・・・わからない。歌が、聞こえて。気がついたら歌ってて。でも、僕、歌とか知らないはずで・・・」

口ごもり、拓深は視線を反らせた。

真実であるが、どこかいけない事のような気がしてしまう。

拓深自身俄かに信じられない出来事で、そんな事を言ったとしても誰も信じてくれないだろう。

ずぶ濡れの顔を拭う。

冷たい雫が滴っても、胸から下げた深紅のネックレスだけは暖かかった。

「歌が、聞こえたのだな?」

「うん」

「それは女の歌声か?」

「え・・・うん」

「そうか・・・」

ハッとして顔を上げると、イスハークは真剣な眼差しで頷いて見せた。

「・・信じて、くれるの?」

嘘つきだと罵られ懲罰を与えられるかと考えが過ぎったというのに。

今度こそ気違いだと思われイスハークに手放されるかとも考えてしまったというのに、彼はそんな拓深の考えを吹き飛ばすようにフッと口元を緩めてみせた。

「あぁ。拓深が言うならそうなのだろう。とにかく、もう中に入るぞ」

きっぱりと言い切ったイスハークは、今度こそ有無を言わさない態度で拓深の腰を抱き寄せ、船長室へと促したのだった。