蒼穹を往く歌声     18



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散々に啼かされ話しどころではなかった。

だがいくら身体を酷使されても、イスハークとのSEXで辛いのはじっとりとした全身のだるさだけで痛みは殆ど無い。

あるとするならば、声を出しすぎて喉が少し痛い程度だろうか。

ぐったりとベッドに横たわり、拓深は心地よいシーツに顔を埋めた。

たかだか一晩SEXをしただけで動けなくなるなんて。

今までに一度も無かった事だ。

こんな事では仕事も勤まらない、などと考えていると、湯気の立ち上る盆を片手にイスハークが船長室へと戻って来た。

「起きたか、拓深。無理はするな」

「・・・うん。ごめん」

「何故謝る。加減をしてやれなかったのは俺だ」

「でも、耐えられなかったのは僕だし」

「当たり前だ。俺と拓深、どちらが体力があるか、考えなくても解るだろう。そんな事よりも、起きられるか?飯はどうだ?」

どこか苛立たしげに言ったイスハークは、盆をベッドサイドのサイドボードへ置き椅子を引き寄せた。

元々人の感情を緻密に察せられる方ではないが、それでも自身の保身の為にも拓深は怒気にだけは敏感であった。

だというのに、それがイスハークであるとまるで解らない。

彼が何に苛立ち何を嫌っているのか、他の人の半分も理解出来ないのは、例え怒ったとしても彼が絶対に拓深に手を上げる事がないからだという油断からだろうか。

今にしてもそうで、眉を寄せるイスハークをじっと眺めながら、拓深はベッドの上に半身を起こした。

全裸の筈だった身体には洗いたてのシャツとボトムスが着せられている。

「着せてくれたのイスハーク?ガノン?ありがとう。ご飯、食べたい」

「俺に決まっているだろ。飯はリゾットにしてもらったぞ。他の物が良かったら直ぐに作らせる」

「ううん。それが良い」

緻密な模様が描かれた陶器の器に盛られた優しい色合いのリゾットは見るからに旨そうで、立ち上る湯気から漂う香りにも空腹感を刺激され、拓深はサイドボードに身体を向けるとスプーンを手にした。

「おいしい。イスハーク、ありがと」

「いや。体調はどうだ?寒くないか?痛みはどうだ?」

「大丈夫。何処もなんともない。それに、コレ、あるから寒くない」

近い距離で膝を突き合わせているイスハークがリゾットを食べる拓深を伺うと、拓深は租借をしながら顔を上げ首を横に振った。

スプーンを持っていない手で胸から下がる赤いタリスに触れる。

これは冷たい雨の中でも暖かく、今ならば尚のこと拓深を優しく包んでくれた。

「ジーノから聞いた。暖かくなるやつだって。イスハークも知ってるんでしょ?」

「・・・。あぁ。もちろん解っていて拓深に渡した。だが、それでも拓深が凍えてはいないかと気になってしまうんだ」

拓深から顔を反らしたイスハークは、苦々しげに言い捨てた。

考えたくないなら、気になる事が苦しいならば放っておけば良いのに。

そう頭の片隅で思えど、タリスに与えられる温もりとは違う暖かいものが胸に宿り、イスハークの言葉がそこに残った。

「ありがと。でも、僕はほんと、大丈夫。寒くないよ」

「そうか」

妙な沈黙が訪れた。

会話はなく、ただ拓深が食事をする音だけが部屋の中に響く。

それが決して重苦しい物ではなかったが、器の底が見え始めた頃、イスハークがおもむろに唇を開いた。

「セイレーンの嵐の件だ。何があったか話せるか?」

「・・・うん。上手に話せるか、解らないけど」

「構わない。俺は拓深の口からあの時の話を聞きたいんだ」

真剣なイスハークの眼差しに拓深は頷いた。

瞼を閉ざし、あの時の情景を脳裏に思い出す。

色褪せる事無くそこへ蘇る記憶はつい今しがたの出来事のようであったけれど、いざそれを言葉にしようと思うと唇が動かなかった。

思えば、拓深の意思を問われた経験は極めて少ない。

そしてそれ以上に、拓深の言葉を真剣に聞こうとされた経験も少なく、故に何から話せば良いのか解らなかった。

今思えば客や父親とは日常会話すら少なかったが、それはイスハークとジーノのおかげで随分と上達したと思う。

もっとも、「会話」というよりも「質問に答えている」と言った方がより正確かもしれないけれど。

話す、と言いながらもなかなか口を切らない拓深を、けれどイスハークは急かさず黙って待ってくれた。

「歌が、聞こえたんだ。最初は小さな声で、でもすぐ大きくなって」

何処から聞こえているのか解らなかったのでとても不思議だった。

それが妙に気になったので、イスハークに逆らってまで甲板に留まっていたのだ。

すると青空の中から雨が降り出し、「セイレーンの嵐」となったのである。

豪雨の雨音と強風の風音が凄まじかったけれど、それでもあの歌声がかき消される事はなく、むしろより大きな声音となり奏でられていた。

そして、気がついた時には導かれるよう唇を開き、生まれて初めての歌を歌ったのだ。

自分が何を歌っていたのか、歌詞の一つももはや思い出せない。

同じものを今歌ってみろと言われても不可能で、よもやあの時の出来事はまやかしとしか思えない程だ。

その歌が関係しているのかいないのか、拓深が歌い始めてから間もなく嵐が止んだのはイスハークも知る所だろう。

嵐が去った後、あの歌声もまた遠くへ消えていっていたのである。

だという一部始終を、拓深はたどたどしい口調で話した。

前後が逆になってしまったり、上手く言い表す言葉が出てこない事もあった。

たったそれだけを話すのに随分と時間を要してしまったけれど、それでもイスハークは相槌を打ちながら最後まで口を挟む事無く聞いてくれたのだ。

「やはりな」

拓深が「おしまい」と言うのを待ち、イスハークは神妙な表情で一人納得したように頷いた。

「部屋に入る前に拓深が言っていた事が気になってな。拓深が寝ている間に少し調べたんだ。古い文献に載っていたものや別の書物に載っていたものを総合して立てた予測と、拓深の話を合わせて確信した。拓深が聞いたのはセイレーンの歌声だ」

「セイレーン、って居ないんじゃないの?」

「あぁ。一般的には物語の中の魔女だ。だが、その物語を事実のように書いている古い文献には、セイレーンは歌声で嵐を起こすとされている。今までの俺ならば、非現実的な子供騙しな物語で信憑性など皆無だと、そのような話は信じなかっただろう」

「・・・」

けれど、今の口ぶりではイスハークは拓深を信じているようである。

拓深の伺うような視線に、イスハークは一瞬視線を合わせただけで再び目を反らせた。

「だが、拓深が異世界から来たのだ。魔女くらい居ても不思議ではないだろう。それにその歌声を聴いたのも拓深だ。異世界から来れたくらいなのだから拓深には特別な力があるのかもしれない。文献にも歌い返した者が居るという事実は書かれていない」

「歌い返したっていうか、ただ歌っただけかもしれない」

「拓深は歌を知らなかったのだろ?突然歌など歌えるはずが無い。拓深にはセイレーンの嵐を追い払う事が出来ると考えてもおかしくはない」

「でも・・・」

おかしくはない、と言われればそうも思えるが、まさか自分に特異な力があるとも思えない。

視線を泳がせるばかりで何も言えずにいると、拓深の髪をイスハークが優しく梳いた。

「悩む必要はない。これが今回だけなのか次も同じようなのかは解らない。だが考えても解らないのだから、拓深は今まで通りで良いんだ。俺は真実は知りたかったが、言いたかったのはそれだけだ」

「え・・・」

てっきり、もっと明白にその力が使えるように成れとでも言われるのかと思っていたというのに。

いつもは鋭い眼光を優しく光らせたイスハークを眺め返し、拓深は戸惑いながらも頷いて見せたのだった。