蒼穹を往く歌声     23



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後数時間としない内に港に着くと船員の誰かが言っていた。

もう随分と大きく見えてきた陸地を、拓深は船の縁に寄りかかりぼんやりと眺めている。

まだ茶色にしか見えないそこは、山か建物か何かが聳えているのだけは解った。

「どうした、拓深」

「あそこに、行くんだなって思って」

「あぁ。ナジャーヌは久しぶりだが、顔見知りは居る。拓深にも不自由をさせるつもりはない」

海の向こうを見つめる拓深の背後に立ったイスハークは、その腰を抱くと覗き込むように口付けを施した。

急に視界を塞がれビクリと肩を震わせてしまったものの、キスをされていると気がつくと拓深は瞼を閉ざしそれを受け入れる。

されるがままのキスはイスハークの気の済むまで続き、深いものが終わるとチュッと唇を啄ばみ離れていく。

特別身動きもしない拓深を見下ろしたイスハークは、それでも満足げに笑った。

「恋人」なる関係を結んで以来、イスハークは場所を選ばず拓深とスキンシップをしたがっていた。

抱きしめるだけで終わる時もあれば今のようにキスをされる時もある。

最後の接合はまだイスハークの船長室以外でおこなった事はなかったが、いつ他の場所で求められるか解らないな、とすら感じる程だ。

それについて拓深は特に考える事もなく、イスハークがしたいならばすれば良いと思っている。

彼との関係、そして性行為を「仕事」とは思わなくなったものの、だからといって拓深の感情や態度が大きく変わる事もなかった。

イスハークが拓深にどのように接しても、拓深がイスハークに甘える事は殆どとないに等しい。

あるとするならば、行為の後二人でベッドで眠る時、拓深が無意識にイスハークの体温を求めて擦り寄る事くらいだろうか。

そんな恋人らしい甘さを見せない拓深にイスハークは苦言の一つも言わなかったが、ただ日に日に構いに来る頻度が増えている気はしていた。

「街に着いたなら拓深の服を買わなければならないな。髪も整えた方が良いし、他にもしたい事や欲しい物があれば何でも言え」

「別に、ない」

「今は無くとも見れば出てくるかもしれないだろう」

「そうかな」

「あぁ、そんなものだ」

キスの後見上げていたイスハークから、少しばかり近づいた気がする陸地へと視線を移した。

元居た世界ではボロアパートと勤める店、それからその道中の道しか知らない。

ここに来てからも、広すぎてまるで停まっているかのような海と、限らせた船の中しか知らず、あんなにも大きく見える陸地を自由に歩くのは初めてと言っても大げさではなかった。

きっと知らない物が沢山あるだろう。

その中からイスハークが言うように欲する物を見つけるかも知れない。

未知の体験に対する期待が自然と持ち上がり、拓深はワクワクとした気分になっていた。

「楽しみ」

声を弾ませるでもなく、頬を吊り上げるでもない。

静かに胸を高鳴らせるばかりであった拓深に、けれどイスハークはふっと口元を緩めてみせた。

「そうか、それは良かった。───拓深は、色が出てきたな」

「・・え」

隣りに並ぶよう背を船の縁に預けたイスハークは拓深の髪を指に絡める。

その様子はどこか楽しげで、拓深は不思議なものを見るように彼を見つめた。

「色?」

「そうだ。初めて拓深を見た時は灰色一色のようだった。まるで感情がないようで、いつか人形のように動かなくなってしまうのではないかと思う時もあった。だが今はきちんと、沢山の色も持っている」

「沢山・・?」

「あぁ。表情が出て来た、とでも言えば良いのだろうか。まだ薄いが、けれど瞳だけは正直に色を湛えている。今俺には拓深が楽しそうに見えたぞ」

彼の指が髪を離れ、頬を辿る。

それでもじっとイスハークを見続ける拓深に、彼はニッと笑って見せた。

「自分では解らないかも知れないがな。少なくとも、俺には拓深の感情が伝わるようになったぞ。嬉しいものだな」

「・・・感情」

自分の感情など、誰も気にしないと思っていた。

誰に伝える必要もないし、むしろ拓深の抱く感情が相手にとって不愉快な物ならば殴られるので、感情など知られないに越した事は無いとすら考えていたというのに。

感情を隠すと共に遠い昔に忘れてきた表情の出し方を、船に来て以来少しづつ思い出せている気はしていた。

そしてそれを、誰も必要としていないと思っていたそれを、イスハークは見つけてくれ嬉しいとすら言う。

やはりイスハークは拓深にとっての不思議だ。

それとも、それこそが「恋人」というものなのだろうか。

「───船長、上陸の準備に入ります」

まじまじとイスハークを眺め、すぐ近くで船員達が作業する中二人きりの雰囲気を作っていると、遠くからガノンがイスハークを呼ぶ声が聞えた。

紫の髪を日の光になびかせたガノンは、今日も船に似合わない紳士然とした装いである。

「・・。あぁ、解った。拓深、部屋に入っていろ」

今までの甘いだけの面持ちを一変、鋭く苛立ちさえ伺える雰囲気を纏ったイスハークはガノンの叫び返し、そして拓深に一瞬目配せをするとその場を立ち去った。

海を見やるとその向こうの風景はなんとなくであるが、山と建物の区別が付くようになっていた。

陸地への距離は更に縮まっており、いよいよのようだと緊張する。

その拓深の眼差しは、高揚の光を湛えていたのであった。