蒼穹を往く歌声     29



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拓深はあまり客室に留まらないようになっていた。

イスハークの居ない時間は大抵下の酒場に降りており、一人でボウっとしている時もあれば誰かとアルコールを飲んでいる時もある。

酒場に人が増えても部屋に戻ることなく賑わいを眺めている事も多い。

とはいえまだ楽器を打ち鳴らしたり踊ったりとは出来なかったが、わいわいガヤガヤとした雰囲気の中、人と過ごす事は楽しいのだと思えていた。

拓深の気持ちの変化を察してくれたのだろう。

初めこそ嫌な顔をしていたイスハークも、数日も経てば認めてくれたようであった。

ただ、船員たちと肌を触れ合わせるな、とだけは煩い程言い続けられている。

他にも、「何かあったら言え」「危険が起こったら助けを呼べ」と毎日言われていたが、幸い今のところは拓深が危機に感じる状態に陥った場面は一度もない。

拓深からすれば、イスハークは心配し過ぎのように感じられる。

とはいえ、「心配される」など初めての拓深は、むず痒い気持ちになりながらも嬉しくもあった。

そんなイスハークのもう一つの言いつけは、酒場からは一人で出ない事だ。

酒場は誰の出入りも自由ではあったが、実際そこに居るにはバリアーカの船員、それから娼婦のような派手な女達だけだ。

女達は船員が連れてきた者も居れば船員達を誘おうと群がってきた者も居るが、拓深に危険はないだろう、というのがイスハークの判断である。

彼女らの中には、初日にイスハークを取り囲んでいた若い女らも居り、拓深に対し離れたところから嫌みや妬みを口にしてはいたが直接的には何をしてくるでもなく、イスハークの憶測通り特別気にするでもない程度だ。

船員たちにしても、まだ拓深によそよそしくしている者も居たが、だが基本的には陽気でサッパリとした性格の者が多く、日に日に拓深と親しくしてくれる人数は増えていった。

限られた船の上に居た時は知れなかった物を、拓深は今回の上陸で知り得た気がする。

明日にはまた航海に出るそうだが、また船に戻る事に対し不安など一つもない。

それどころか航海が楽しみな気持ちも高まり、今度はイスハークに頼んで船の仕事も手伝わせてもらいたいと考える程だ。

以前は「イスハークの慰み者」という「仕事」に就いていると理解していたが、今は「恋人」であり、それは仕事ではない、というのが拓深の認識である。

ならば、船に乗せてもらい衣食住を与えて貰うにはそれ相応の見返り、すなわち仕事をしなければならないと思う。

働かざる者食うべからず、それは拓深がうんと小さい頃から父親に言われ続けられもはや洗脳のように頭に染み込んだものであった。

だが、いくら働きたい気持ちがあったとしても、ジーノを初めとする船員達の誰と比べても比べ物にもならない体格の差と腕力の無さ、かといってガノンや航海士のエタルのような知能があるわけでもない。

今まで身体を売る以外他の仕事など経験がなかったが、イスハークは働きたいという相談に乗ってくれるだろうか。

期待と不安を相混ぜながら拓深がグドルに唇をつけていると、不意に視界が暗くなった。

「・・・」

反射的に顔を上げたが、そこには見知らぬ、けれどいかにも海賊だという服装の男が立っていた。

ここはバリアーカの貸し切り状態で、そこへ他の海賊が入ってくるとも考え難い為彼もバリアーカの船員なのだろう。

拓深と顔見知りでない船員など大勢居る。

それどころか、バリアーカの乗組員の人数は多いので、一度や二度話した程度では顔も名前も覚えきれない。

ただ見上げるだけの拓深に、その男は拓深の肩をポンと叩き気楽に言った。

「よ。探したんだぜ?」

「・・・。探してたって、僕を?」

「あぁ。船長がお前を呼んでるんだ。付いて来てくれねぇか?」

「イスハークが?」

そうだと頷く男に拓深は首を傾げる。

イスハークが他の誰かに拓深を呼んで来させた事は今まで一度もなかったように思える。

とはいえ、ここは限られた船の上ではなく広い街で、イスハークが動きにくい状態があっても不思議ではないのではないか。

少し考えはしたが、拓深は頷き返し椅子から立ち上がった。

「わかった。何の用だろ」

「さぁな。明日から航海だから、もしかすると最後の夜のデートじゃねぇか?」

「・・。そっか」

ふと思い出せば、今頃はいつもならばイスハークの帰ってきている時間だ。

それがまだだという事は、男が言う通りイスハークが何処かで待っているのかも知れない。

イスハークとデート。

そうならばきっと楽しくて、嬉しい気持ちになるに違いない。

街に居ても、オフタイムを楽しむ船員と違いイスハークは忙しそうにしており初めの日以来デートらしいデートもしていなかった。

それに不満を感じる拓深ではないが、けれど寂しく感じていたのも事実である。

「イスハーク外?」

「あぁ。大丈夫、すぐ近くで待ってるからよ」

「うん」

トップスとボトムスを叩き[はたき]心持ち身なりを整える。

手櫛で髪を解かすと、拓深は心持軽い足取りで男の後ろに続き酒場から出て行ったのだった。