蒼穹を往く歌声     30



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具体的に「何処に向かっている」と言われないまま、拓深は黙って男について行った。

酒場から出て直ぐに大通りではなく小道に入ったが、ここはここで賑わっている気もする。

バリアーカの男たちと似たような雰囲気の男たちが店の中や外で騒いでおり、そんな場所にイスハークが居ると言われても不思議ではなかった。

ただ少し疑問に感じたのは、酒場では男は「すぐ近く」と言っていたが、あまり「直ぐ」という短い距離には感じられなかった事だ。

とはいえ、船の中や酒場に籠もりっきりだった為に距離感覚が鈍いる拓深と異なり、この屈強な男にとっては「直ぐ」の距離なのだろう。

周囲を見渡しながらも大人しくついて歩いていた拓深は、けれど潮の香りを感じいよいよ歩みを止めた。

「ここ、港?」

「あぁ。船長は船でお待ちなんだ」

「船で?」

何かが、おかしいと感じた。

具体的にそれが「何」であるかは解らなかったが、イスハークが船に自分を呼びつける、というのがなんとなく不自然だと思った。

どんなにバリアーカで畏怖を振りまいているとしても、イスハークが拓深個人に権力を振りかざす場面は殆どないと言って良い。

威圧的な物言いをしていたとしても、彼は拓深をいつも対等に、否、時には己よりも大切に扱ってくれている。

立ち止まり突っ立ったままの拓深は、そういえばこの男から名すら聞いていなかったと思い直した。

名前も知らない船員を、イスハークは拓深への使いに寄越すだろうか。

ついこの間まで、船員と話す事すら嫌がっていたイスハークが。

そう考えが至ると、拓深は街灯も薄暗い路地で男と向き合ったままじりじりと後退さった。

「・・・」

街の賑わいも、光も届かない、低層の古びた建物に囲われた陰気くさい細い道の中。

この場所は、似ている。

暴力と暴行と、犯罪すら横行するあの町、拓深が生まれ育った場所に。

「やっぱり、僕戻る。ジーノか誰かと一緒にもう一回来る」

「おいおい。デートに他の男連れで行く気か?」

「でも・・・。その時は、ジーノに帰ってもらう。だから、とにかく僕・・・」

「ンな事したら船長にもジーノにも迷惑だぞ?それぐらい解るだろ?」

「・・・そんな事、思わないよ」

文句の一つや二つは、イスハークもジーノも口にするかもしれない。

迷惑に感じもするかも知れないが、けれど事情を話せば、拓深の拙い言葉でもそれを伝えようとすれば、二人とも解ってくれると信じられる。

だが、それすらわからないこの男は、信用に値しないと拓深の中で判断された。

「何心配してんだ?船長は直ぐそこだぞ?」

言いながら男は大股で近づくと、拓深がどうするよりも早くニヤニヤと笑いながらその腕を掴んだ。

「やめっ・・離して・・・」

「怖がるなって」

男の信用有無だけではなく、何かがおかしいという疑惑が確信に変わった。

ジーノ以外の船員は、たとえ副船長ガノンであったとしても決して拓深に触れてなどこない。

それはイスハークが恐ろしい瞳を光らせているからで、彼が見ていないからといって拓深の背を叩いたり肩を組んだりとしてくるのは、拓深を大海原から拾い上げた張本人で命知らずのジーノだけだ。

拓深に触れるとイスハークが激昂する。

バリアーカの船員全てが知っているその事実を無視したこの男に、恐怖を感じた。

「離して・・・離しっ・・・」

「調子にのってんじゃねぇぞ、餓鬼。高々情夫のくせに、デカい顔してんじゃねぇよ」

「っぅ・・・」

男は掴んでいた拓深の腕をきつく締めそして捻り上げる。

一見して腕の太さが倍程も違う男にそうされるものだから、拓深は息を呑み眉を潜めた。

この程度なんて事はない。

痛感はあるので痛いには違いないが耐えるに値するものだ。

逃れたい、イスハークの元へ戻りたい。

男の腕を振り切って逃げたかったけれど、拓深の中に根深く植え付けられたモラリズムが、抵抗を辞めさせた。

逆らえばもっと痛めつけられる。

今は耐えられたとしてもそのうち耐え難い苦痛に変わり、それでも止めてもらえない自体に追いやられるだろう。

自分がこの男から、自分を抑する相手から逃げ切れる筈などない。

平穏な生活で忘れてしまっていた過去がフラッシュバックし、拓深は力なく顎を引いた。

「来い。騒ぐんじゃねぇぞ」

この先にはイスハークは居ない。

そう解っているというのに、拓深はついて行く道しか選べなかった。

暗がりの細い路地を抜ける。

そこは港となっていたが拓深が上陸した場所ではなく、船はあったもののバリアーカ・クイーン号ではない。

似たような外観・大きさの帆船だ。

そして船の周りには見たことの無い、けれどやはり拓深の腕を掴んでいる男と同様に屈強そうな男達が立っており、その装いから彼らも海賊であるとなんとなく察せられた。

「約束通り連れてきたぜ。船長に会わせてくれ」

「これがそれか?」

「おぉ。確かに女みてぇだ。これだったら俺も喰えるぞ」

「お前は喰われる方が良いんじゃねぇのか?」

下卑た笑い声が漆黒の海に吸い込まれる。

星もつきも瞬かない闇の下、船から灯される僅かな明かりが全てであった。

「乗れっ」

「っぅ・・・」

『何かあったら言え』『危険が起こったら助けを呼べ』、そう毎日しつこいくらいに言われていたというのに。

けれど心の大半を占める諦めた感情から、拓深は何一つ口にする事は出来なかったのであった。