蒼穹を往く歌声     32



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生理的に身体が涙を流す以外で泣くなど、記憶にない。

泣いても叫んでも、自分の気持ちを伝えたところで相手は余計に不快になり暴行の手を強めるだけだと、そう刷り込みをされているからこそ、拓深は長い間それを忘れていたのだ。

自分の中にまだそんな機能が残っていた事にも驚いている。

長年使っていなかったその機能を急に使用したからだろうか、今はただただ、壊れてしまったように涙が溢れて止まらなかった。

「そんなに悲しいか?情夫のくせに、イスハークを信じてたのか?笑い事だな。あんな奴、女だろうが子供だろうが、血も涙もねぇ奴を信じたお前が馬鹿なだけなんだぜ」

「悲しい、のかな・・」

よく、解らない。

この胸の苦しさは、悲しみから来るものなのだろうか。

そしてもう一つ解らないのは、「血も涙もない」というのは本当にイスハークを指した言葉なのだろうか、という事だ。

拓深対する彼は決してそのような男ではない。

いつも優しくて、大きくて暖かい人だ。

「・・・イスハーク」

もう何も考えず、ただ流れに流されて「商品」となった方が楽だと思った。

このまま瞼を閉ざし、昔のように感情閉じ込めてしまえば、きっと胸の苦しさなど解らなくなってしまう。

けれど。

目元を袖口で強く拭った拓深は、深呼吸を一つすると弱弱しいながらに揺るぎの無い眼差しで男を見返した。

「でも、僕はイスハークを信じたい」

イスハークは、拓深に色が出てきたと言った。

誰も見ようともせず、ある事自体邪魔なのだろうと思っていた拓深感情を、それを知る事を喜んでくれた。

彼は嵐の力などの為に自分を手元に置いていた訳ではないと、信じたいと思ったのだ。

「はっ。ンな事どっちでも良いんだよ。イスハークの何を信じようが信じまいが、お前の運命は決まってるんだ」

「・・・」

それはそうだ。

いくら信じようと決めたところで現在の状況に変化は無く、拓深自身もそれ以外の感情が諦めモードだというのも変わりはない。

「お前はこれから───」

笑い混じりに言う男の言葉は、残念ながら最後まで聞く事は出来なかった。

男のそれを遮るようにギッと耳障りな音が聞こえたかと思うと、小部屋の扉が外側から開けられ、男とそして拓深の視線がそこへ誘われる。

「待たせたな、俺がこの船の船長・ジッド様だ」

小部屋へ入ってきたのは、でっぷりと太った大柄な男だ。

ニタニタと張り付いた下卑た面持ちと、顔半面を覆うこげ茶の髭。

同じ色の髪はカールが掛かっているのかただヨレているだけなのか、グシャグシャに見えるものを後ろで一つに結んでいる。

服の色あわせはセンスも何もなくただ派手で、口元とは異なり笑みの無い瞳からも、如何にも海賊船の船長といった雰囲気であった。

「ジ・・ジッド船長。おっ・・・お初、お目に掛かりますっ」

「お前がバリアーカからうちに来たいっていう奴か?」

「はいっ。サーンといいます」

「そうか。で、それがイスハークの小僧の『大切』な物か。ほほう、ただの綺麗な顔した餓鬼に見えるが、それだけじゃねぇんだな」

「はい。嵐を操れる者です。こいつがいれば嵐にあいません」

「嵐に会わず、イスハークを悔しがらす事が出来、そのうえ性奴まで得られるんだ。一石三鳥だな」

ジッドはガハハハと表したい声で笑う。

奴が部屋へ入って来ても尚部屋の隅でじっとしている拓深は、感情の読み取れない面持ちで二人を見上げた。

どちらも、拓深に話し掛けなどしてこない。

「物」に意見を伺う必要はなく、「物」の賛否など問うつもりもないのだろう。

それどころか、拓深に感情がある事すら考えにないのかもしれない。

だが、なんてことは無い。

ただ以前と同じように戻っただけだ。

どうする事も出来ず、どうしたいとも考えられず、ただ見上げるだけの拓深の前でジッドは拓深を連れて来た男・サーンの肩を勢いよく叩いた。

「ヨシ、取引成立だ。こいつは俺が頂く。そしてお前は今日からうちの船員だ」

「あっ、ありがとうございます」

短いやり取りが交わされている。

己はこのジッドという男の物になってしまったのか、と拓深がどこか他人事のように考えていると、サーンはジッドの部下らしい男らに連れられ部屋を出て行った。

このベッドのある小部屋には、拓深とジッドだけとなり、扉が無情な音を立て閉められる。

「では・・さっそく味見をするか」

仕方が無い。

逃げられない。

恨むなら、浅い判断で酒場を出てしまった己自身にだ。

ニタニタと笑う唇を更に吊り上げ、ジッドは拓深の髪を鷲掴みにした。

「・・・ぁ」

まるでデジャブだ。

初めてこの世界へ訪れた時、バリアーカに拾われた時。

そして放り込まれた下層の小部屋で、イスハークも今のジッドと同じように拓深の髪を掴んだ。

ただ違うのは、バリアーカの小部屋にはベッドすらなく、もしもそこを使ってもらえるならばこちらの方が待遇が良いくらいである。

「来い。お前は俺に売られて来たんだ。俺の機嫌を損ねさすような事はするなよ?その時は海の魚の餌だからな」

拓深は髪を掴まれたまま無理やり立たされると、予測通りベッドへと押し倒された。

硬いベッドに身体を打ち付けた拓深が体勢を整える前にジッドの巨体に覆いかぶさられると、奴の重みにより粗末なベッドがミシッと音を立てた。

「イスハークの情夫か。そりゃ良い」

ジッドが拓深の頬を撫でる。

ざらついた肉厚な指で触れられると、ゾクリと背中に悪寒が走った。

「肉はやはり男だ。男は久しぶりだが、それだけのツラなら美味く食えそうだ」

「ヒっ・・・」

その時、拓深はようやく理解をした。

過ぎてしまった時間を過去に戻るなど出来はせず、己もまた、同じ状況に置かれたとしてもただ単純に「以前に戻る」事など出来はしないのだと。

今の拓深は知ってしまっている。

イスハークに愛される事を。

イスハークにしか抱かれたくはないという感情を。

彼以外に触れられたくは無い。

助けて欲しい。

「・・・っ」

けれど、どんなにそう心の中で叫んだとしても、拓深の唇からそれが発せられる事はなかった。

ここが閉塞された場所だからではない。

幼いころから植えつけられた観念が、助力を求める言葉を拒む。

乱暴に服を脱がそうとするジッドに、強い嫌悪感を抱きながらも拓深はただ強く瞼を閉ざすしか出来なかったのだった。