蒼穹を往く歌声     35



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身体を押さえる者の居なくなった拓深は、ボロボロになった上着とずり下ろされたズボンのまま呆然とベッドの上に座っている。

イスハークは拓深に背を向けており、その向こう側にジッドが転がっている為惨状の全てを知る事は出来ない。

ただ、そこに愛しい彼が居ると、拓深はそのままの体勢で片手をイスハークへと伸ばした。

離れていたのはたった数時間。

そんな程度は日常だが、それ以外の非日常がイスハークの居なかった時間を特別な物へと変え、拓深にこみ上げる物を与えていた。

「っ・・イスハーク・・・・、イスハーク!」

一度目は唇だけで。

二度目は腹の底から吐き出すように、拓深はありったけの声で叫んだ。

狭い部屋にそれは煩いまでに響いたが、振り返ったイスハークは嫌な顔一つせず、カトラスを小気味良い音を立て鞘へ収めると着ていた真紅のコートを脱ぎ、見るも無残な井出たちの拓深の肩へ掛けた。

「遅くなった」

「そんな事ない。僕は、もう、二度とイスハークと会えないんじゃないかと、思ってた。でも、来てくれた」

「当たり前だ。お前は俺の物だ。取られたなら取り返す。何に変えてもな」

「イスハーク。・・、イスハーク、好き、大好き」

肩に掛けられただけのコートがずり落ちるのも構わず、拓深は両腕でを精一杯伸ばしイスハークへ抱きついた。

「汚れるぞ」

そう言いながらも、イスハークは拓深に応えるよう抱き返すと、拓深以上の力でその背を腕の中へ閉じ込めた。

自身の返り血を気にしていたイスハークであったが、だが拓深の方から来てくれるというならもう構う事は何も無い。

そんなイスハークの心情を知ってか知らずか、拓深はその腕の中で張り詰めていた不安や緊張を解いた。

はじめて見るイスハークの凶暴な姿や、飛び散る血しぶきが恐ろしくなかったかと言えば嘘になる。

だがそんな事よりも、今抱きしめられているイスハークの腕がとても暖かくて、それが何よりも拓深を安心させた。

「イスハーク、僕は、嫌だったんだ。僕はもう、イスハーク以外の人に触れられたくないんだって、ようやく解った」

「・・・。そうか。すまなかった、怖い、嫌な思いをさせてしまった」

「ううん。僕がいけないから。勝手について行ってしまって、イスハークの事も疑ってしまった。だけど、でも、そのお陰でイスハークの気持ちにも気がつくことが出来たから。迷惑は、かけちゃったけど」

「迷惑などとは思っていない。だが、俺の何に気がついたと言うんだ?」

「イスハークの想い。イスハークが、いつもどんなに僕を大切にしてくれていたか、あれが愛されているって事なんだって」

褥の中の睦言だけではない。

甘い言葉も、鋭い言葉も、その全ては自分を想って故なのだと解った。

抱きしめていた腕の力を緩める。

拓深がそうするとイスハークもまた腕を緩めてくれ、拓深は顔を上げると真っ直ぐに彼を見つめた。

「ずっと解らなくて、否定もして、それでこんな事にもなってしまったけど・・・けど、許してくれる?」

ジッドに犯されかけてしまった。

イスハークの手も汚してしまった。

沢山迷惑や心配を掛けてしまった。

そんな自分は馬鹿だと罵られるに十分値すると思いながらも、今背にあるイスハークの腕の暖かさを信じたい。

不安げな眼差しの拓深に、イスハークは傲慢そうにニッと口角を吊り上げてみせた。

「ダメだ」

「・・・え」

「仕置きが必要だ」

「・・お仕置き?」

「あぁ」

──────ベッドの中で。

イスハークの一際甘い声音が、拓深の耳元で吐息混じりに囁かれた。

たったそれだけで、拓深の背中に甘い悪寒が走る。

「一晩中寝かしはせずに愛してやるから、拓深もそれに応えてみせろ。そうしたら、全てを許してやる」

イスハークの言う仕置き。

鞭で打たれるでも、針で穴を開けられるでもない、甘い責め苦。

きっと強すぎる快感が辛くて、けれど涙を零しながらももっとと求めてしまうのだろう。

彼は自分の嫌がる事は絶対にしないのだと信じられるから、何時間でも身体を委ねられるのだ。

「・・・イスハーク。うん。良いよ」

殴られ身体を弄られ、辛い事がいくつも折り重なりはしたけれど、だが今は信じられる彼とその愛情に幸せで満たされている。

これからもっとイスハークを信じるならば、彼はそれに応えてくれるのだろうと拓深は漠然ながら強く思う事が出来た。

イスハークに抱きつきながら彼を見上げた拓深は、ほっそりと眼差しを細め、ぎこちのない微笑を浮かべたのであった。