蒼穹を往く・下巻   試し読み [本文より抜粋]



天井から吊された安っぽいランプが揺れる。

木造の広いフロアには人がひしきめ、どこかしこから音楽や歌声・笑い声が聞こえる。

数え切れない数のテーブルとその更に何倍もの数の椅子が乱雑に並ぶ中、篠原拓深[しのはら・たくみ]は隅のテーブルでカップに顔を埋めた。

此処は港町で一番大きな酒場で、今はバリアーカ・クイーン号の船員の貸し切り状態だ。

いつもより長い航海をへて久しぶりの陸地とあり、船員らのはしゃぎっぷりも盛大であった。

どのテーブルにも酒や料理が並び、テーブルゲームをしているテーブルにはコインが積み上げられる。

そのコイン目当てに集まった若く美しい女性達が、むさ苦しい男ばかりの宴会に華を添えていた。

拓深はこちらの世界に来るまで女性との関わりなど殆どなかった。

その為『女性』という未知の生物について様々な憶測ばかり持っていた拓深だが、それはあながち間違っていなかったと今なら思える。

男とはまるで違う体つき。

長い髪を巻いて、派手な色のドレスを着て、高い声で笑う様は確かに華やかだ。

それを拓深自身が欲する事がなかったが、男ばかりの中に色を添えるという意味ではありがたいと思う。

フロアの反対端でワッと声が沸く。

その要因がなにであるのかまでは知れなかったが、音の絶える事のないこの雰囲気が拓深は好きだ。

暖かいと感じるのは、決して体感温度故だけではないだろう。

いつまでもこの雰囲気の中にいたい。

ふと瞼を閉ざした拓深は、けれどそれもつかの間、後ろから頭をはたかれた。

「よぉ、探したんだぞ」

「……ジーノ。僕も探してた」

「ま、こんだけ人がごった替えしてたら仕方ないな」

片手に纏めて持っていた大降りのカップを二つテーブルに置く。

一つに唇をつけたジーノは、もう一つを拓深へと押しやった。

カップに触れただけで熱を感じるそれは、温かいアルコールだ。

今拓深が飲んでいるものと同じもので、ちょうどカップが空になったと拓深はそれを持ち替えた。

「ありがとうジーノ。ちょうどなくなった」

「そりゃ良かった。お前だったら俺にペース合わせるだろうと思ってな」

ジーノがカップを煽る。

その言葉を聞けば合わせないわけにも行かず、拓深もジーノに倣ってカップを煽った。

何度航海を重ねても、相も変わらずジーノは拓深を構ったし、今では拓深もジーノを特別な友人だと認識をしている。

愛情と同じく未知数であった『友情』という存在は、くすぐったくも心地の良いものだ。

「船長は一緒じゃねぇんだな。まぁ、じゃなかったら俺が声掛けられなかったから良かったんだけどよ」

「イスハークは出かけたよ。換金するんだって言ってた」

「あぁ、この間のあれだな。貴族の船から奪ったでっけぇタリスがごろごろあったからな」

「うん。なんかそんな事言ってた」

あまり興味のなさそうな口調で言い、拓深は皿の上からチーズを口に運んだ。

イスハークは今、ガノンと他数名の船幹部を連れて戦利品の換金に出かけている。

陸地では換金するのがイスハークの最たる仕事だ。

海で稼ぎ港で豪遊する。

加えて陸地では賊行為を行わない事をプライドとしているバリアーカ・クイーン号の船員らは、港では歓迎される存在だ。

しかし逆に、陸地では大人しくしているのを逆手にとり舐められもするのが現状であった。

その為拓深は出来る限り、船員の集まるこの酒場から出るなと言われている。

「これおいしいね。チーズにビスケット乗ってる」

「そうか? 俺は肉の方が良いけどな。港じゃぁ肉食べ放題だから幸せだな」

「うん。肉も、美味しいね」

もっとも、拓深にとってはたいていが美味しい食べ物だ。

船の上であっても温かい食事が与えられる。

陸地であれば煮え立った鍋がそのまま出てくる料理も食べられる。

旨い料理で腹を満たす事はこんなにも幸福なのだと、この世界に来て初めて知った事の一つだ。

「次はどこ行くんだろうな。牛の肉が旨いとこがいいな」

「うん。僕もそれが良いな。イスハークに頼んでみようか」

「良いな、それ。船長がンな事で航路変えてくれるかはわかんねぇけどな」

「そうだね。でも、言うだけ言ってみる」

ビスケットの乗ったチーズを口に運びながら、拓深は頷いた。

この世界に来てから知った物事はたくさんある。

そして、拓深自身にも多くの変化を与えていた。

以前は皆無といって無かった表情は、少しずつだが確実に増えている。

無欲というよりも欲を持っても諦める事しか知らなかった点も、今ではそれを相手に伝える事が出来る。

特にイスハークにならば、何でも言って良いと思えていた。

それが叶えられるか否かは別問題だが、まず言わなければ伝わりもせず、それがまず一番重要だ。

「肉は良いよなぁ。魚もいいけどな」

「美味しかったらなんでもいいけどね」

「そりゃそうだ、旨かったらなんでもいい!」

無意味に拓深とジーノがカップをぶつけ合い打ち鳴らす。

声を上げて笑うジーノに、拓深も小さく笑った。

拓深の表情はまだ大きくはない。

けれど、笑うという行為を確実に思い出している。

カップのアルコールを飲み、近くに転がっていた瓶のアルコールも飲む。

テーブルの上のつまみが無くなれば隣のテーブルのそれに手を伸ばす。

ジーノと他愛のない会話を交わし、そうして暫くがたった頃、不意に酒場の入り口が騒がしくなった。

「……どうしたんだろ?」

「あ? 船長方が帰ってきたんじゃねぇのか? ───ほら」

テーブルから顔を上げた拓深が正面にある酒場の出入り口を見やると、ジーノがそこを振り返る。

人の壁でその先は見えない。

だがそれもつかの間。

あれほど溢れていた人が左右に割れ一本の道が作られると、その先に深紅のコートを見た。

「イスハーク。お帰り」

数名の男を従えその先頭に立つ、深紅のコートと銀色の髪。

酒場に集う荒くれ者の男達のトップであり、拓深の唯一無二の存在。

イスハークがふと口元で笑ってみせた。

「拓深は大人しくしていたか? 随分と飲んだみたいだな」

「そんなには飲んでないよ。イスハークはもう仕事終わり? 飲む?」

「あぁ。仕事は終わったし、飲む。だが飲むのは部屋でだ。拓深も来い」

「うん。ジーノ、じゃぁ僕行くね」

「あ、あぁ」

手にしていたグラスを置き、拓深はさっさと立ち上がる。

イスハークが戻ってきた。

面もちに浮かぶうっすらとした微笑以上に、内心は弾む気持ちだ。

腕を伸ばしたイスハークが拓深の腰を抱く。

鍛えられ筋肉質な腕と、大きな手のひらの力にどこか安心感が与えられた。

この強い腕は、拓深を傷つけない。

それを真に理解を出来たのはいつだろうか。

イスハークが酒場の隅に足を向ける。

そちら側の人の壁が割れた道を通り、二人は階段を上ると酒場の二階の客室へと向かったのだった。