守ってやるから・プロローグ



夕方から夜へと移り変わる頃、多くの企業がそうであるように永友裕樹【ながとも・ゆうき】の勤める会社も定時を迎える。

中型規模の企業のオフィス。

周囲で同僚らが仕事を終えたと声を上げたり残業だと言いながらパソコンへ向かう中、永友は思わず何事かと目を惹くような猛スピードで帰宅の準備に取り掛かっていた。

そしてそれをあっという間に終えると、誰にともなく帰りの挨拶を口にしフロアを飛び出して行く。

これはここ数週間のお決まりとなった行為で、そんな永友について社内で色々と言われているのは当人も知っている。

有る事無い事、否、殆どが根も葉もない噂で、中には悪意の篭ったそれもあった。

はっきりと目の前で言われなくともしっかりと耳に届く場所で囁かれているのだからようは同じだ。

それでも永友は弁解一つ誰にも言わず、同じ生活を繰り返していた。

───永友は、人ごみに埋もれてしまいそうな地味な男である。

年齢は27歳。

平均的な身長にやや細めの体躯。

シルバーフレームの眼鏡と黒い髪が野暮ったくもあり、量販店の吊るしのスーツを着ればどこにでもいる、一度見ただけでは覚えられないような有り触れたサラリーマンだ。

その永友が、急いで社屋を後にし向かった先。

都内の会社最寄り駅から電車を乗り継ぎ、自宅のある駅を通り過ぎ、神奈川へ入り暫く。

降り立ったのは、川崎駅である。

まだネオン街にネオンが灯るには幾分早い時間であるにも関わらず、永友は人波を縫いその路地へと消えて行った。

有り触れたサラリーマンの永友。

だがその裏には、決して有り触れては居ない事情と、そしてもう一つの顔をこの街に隠し持っていた。

まるで走るような早足でネオン街を進み、人目を避け更に細いビルとビルの隙間のような場所に滑り込む。

そして、ゴミ箱に入りきらなかったゴミが溢れる場所の直ぐ隣にある扉を───ビルの裏口を押し開いた。

「おはようございます」

誰も居らず返答の返って来ない、いかにもバックヤードとばかりの小さな調理場。

シンクやコンロはあるもののその狭さからレストランではないと一目で解るそこをさっさと通り抜ける。

今は明るく灯されたフロアを横切り、かって知ったるとばかりに永友は奥の部屋を目指した。

「お、聖【せい】、おはよ。今日は早くね?」

「あ、シンヤさん。おはようございます。ちょっとだけ早く出れたので。すぐ準備して掃除します」

目的の部屋を目前にしたそこで、声を掛けられ永友は己を別の名で呼ぶ男を振り返った。

彼はこの店のオーナー・シンヤである。

ここでは、永友は『永友裕樹』ではない。

『聖』、それがシンヤの付けた永友の名であったが、今の永友を見る限りなんとも名前負けをしていると感じられるだろう。

「あぁ、任せたぞ」

肩を軽く叩いたシンヤと別れ、永友は壁と同色で目立たなくされている扉のドアノブを押した。

「おはようご・・・あ、誰も居ないや」

勢い勇んだ挨拶は、空室のそこに虚しく響く。

ロッカーが並ぶ様は一見、学校の運動系部活の部室を思わせたが、大きな鏡と部室などには無いだろう化粧台のようなスペースが設けられた部屋だ。

複数並ぶロッカーの中の一つへ真っ直ぐに向かい、永友はポケットから取り出した鍵でそれを開けた。

「急がなきゃ」

手にしていたビジネスバッグをロッカーの中へ放り込み、ジャケットを脱ぎネクタイを外す。

白いワイシャツはそのままスラックスと靴も脱ぎ、代わりにロッカーの中へ掛けられていた別のスーツ・靴を手に取るとそれらを身に着ける。

そしてロッカーの棚に置いているいくつかのジェルやスプレー───頭髪剤の類などを手にすると、永友は化粧台へと向かった。

鏡に映る己を真剣な眼差しで見返し、以前教えられた事を正確にこなして行く。

ただ降ろされていただけの髪に頭髪剤を施し、丁寧にけれど時間が惜しいと手早くそれを整えた。

そして、最後に眼鏡を外す。

「・・・。よし」

そこに居たのは、『永友裕樹』ではなく、『聖』。

ここ、ホストクラブ・ジュリーの新人ホスト・聖であった。

つい先ほどまで名前負けをしていた筈のその名が見合う姿となり、永友はスプレーやジェルなどを片付ける。

永友は、地味ではあるが素が悪い訳ではない男だ。

黒く長く伸ばされた髪、シルバーフレームの眼鏡。

その奥にある素顔は、細い輪郭に大きく意思の強そうな瞳が男性的で、目鼻立ちの整った美丈夫であった。

残念ながら、『永友裕樹』をそのように───美丈夫だかなんだかと知っている人は少な過ぎるまでに少ない。

永友も自ら隠している節がある。

だが此処では、『聖』がそうであると皆が知っている事実だ。

間もなく、このロッカールームに人が増えるだろう。

キャッチに出ている者やこれから出勤の者らが一同に解す時間帯となる。

ポケットにシルバーのライターが在る事を確認し、永友は綺麗に整頓されているロッカーの扉を閉め鍵をかけた。

ジュリーの中では年長者の域に入るとはいえ新人である事に代わりはなく、黒服を手伝い掃除をするのも仕事の内だ。

いつもと変わらぬ、ここ数週間の毎日と同じ今日。

「よし、行くか」

けれどこの数時間後、───永友の人生が大きく変わるなど誰一人として知るよしも無いのであった。







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