バロックエンジェル・プロローグ



漆黒の暗闇。

街灯もない、ただ古いビルが建つばかりの一帯。

平成の日本の都心にありながらも、法も秩序もない街。

警察はもちろん暴力団も手を出そうとしない、浮浪者と不法入国の海外マフィアが蔓延る無法地帯。

誰も本当の名前など名乗らず、年齢も出身もここでは無意味で、それどころか性別すら嘘か誠か解らない。

そんな場所に、その少年は住んでいた。

住んでいた、というよりも『住み着いていた』と表した方が正しいだろうか。

「嬉しいなぁ。今日は良い日ぃ」

真夜中の廃屋の街に、似つかわしくない明るく幼い声が響く。

頭を揺らしながらさも『嬉しい』と身体で表すように、その少年は古びたビルの隙間と隙間をまるで猫のように縫いながら歩いていた。

到底道とは呼べない『隙間』だが、少年は当たり前のように細い壁に身を押し込め段差を乗り越える。

理由の無い殺人も日常茶飯事に行われている荒くれ者が集う無法の街だ。

そんな地で、それもこの少年のように見るからに力の無さそうな者が暮らすには、それぐらいしなければならない。

少年は、外見で判断するに14・5歳。

風呂など入った事もないような薄汚れた肌とベトついた髪、変色しきったボロ布の服。

ガリガリに痩せ細った身体はあばらが浮いている程だ。

「ひだりの好きなの貰ったぁ。お家帰って食ーべよ」

弾んだ声の少年は、嬉しげに手にしていた物を振った。

それは、コンビニやスーパーで売っている極普通の袋入りのパンだ。

しかし商店などないこの界隈でそれは容易に手には入る物ではなく、少年にとってはいっそご馳走であった。

食べ物を得たければ『外』へ行くか、『外』から持ち込まれた物を奪うか、『外』から持ち込まれた物を貰うか。

少年はもっぱら『貰う』だ。

『外』に一人で行くのは怖い。

けれど奪うなど到底出来ない。

そうして残された選択肢が『貰う』しかないのだが、幸いこの街に住み着いている浮浪者の連中に少年は可愛がられており、時折こうして食べ物を与えて貰える時があった。

なんてことはない、ただこの街に『少年』が珍しく、薄汚れていても天真爛漫な少年に一癖もふた癖もある浮浪者も構いたがるのだ。

その浮浪者らに、少年は『左【ひだり】』と呼ばれていた。

少年───左の身体的特徴から来る呼び名だ。

一見嘲りにも思える名ではあったが、そこに特別な悪意はなく、左自身も『個人を特定するモノ』を与えてもらい喜んでいる。

『嬉しい・嬉しい』と左は頬を綻ばす。

柔らかい物の中に黒い物が入った食べ物。

確か、『あんぱん』だと浮浪者の一人が言っていた。

食べ物は大抵の物が好きだがこれは特に好きな物で、だからこそゆっくりと慣れ親しんだ寝床で食べたい。

そうして、隙間を一つ抜けた時であった。

「・・・あ、ひだりのお家・・・」

明かりの届かない暗がりの中。

それでも解る白い人影。

至極珍しい事に、左が『家』と呼んでいる場所に見知らぬ姿があったのである。

もっとも、『家』などと言ったところで壁も屋根もある訳ではない。

ただ、ゴミのような『家具』が置かれ、多くの時間を左が過ごしているだけに過ぎないビルの隙間。

真っ当に考え、その人影はただ此処へ迷い込んだだけだろう。

けれど左にとっては、『家』に『人が来た』としか思えなかった。

それがなんとも不思議で。

その人影を伺いながらも、左は怖がるそぶりを見せずそこへ近づいた。

淀んだ空気の、静まり返った場所。

その中に、左が手にしているパンの入った袋が立てたガサリとした音は、これでもかと大きく響く。

「・・・なんだ、お前」

そのパンの袋が立てた音で初めて左に気がついたのだろう、人影が左へと振り返った。

「あ・・・」

暗くとも夜目の利く左には解る。

見た事のない男だ。

鋭く印象的な眼差し、白いジャケット。

足から流れる鮮血だけはこの街のモノのように思えたが、それ以外は此処にあってはならない物に感じられる。

きっと、『外』から来た人だ。

「おい!」

男の声が心地よくて。

何より『家』に来てくれた事が嬉しくて。

「ひだりね、ひだり!」

左手でパンを持ち、男の隣へ腰を落とす。

今日は嬉しい事が沢山あった。

だから、この後ももっと嬉しい事が起こってくれるかも知れない。

「はぁ?意味わかんねーし、お前臭っせーし。何なんだよ」

これでもかと不機嫌な声を放つ男。

それを気にも留めない左は、ニコニコとしながらその男を見つめ返したのだった。







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