ヤクザものシリーズ・お礼用SS
(ランニング)



会社から帰宅したばかりの暁は、手にしていた白いビニール製のショップバッグをダイニングテーブルの上に置いた。

帰宅途中に購入して来たばかりの物で、寄り道をするのも生活必需品以外の買い物もなんとも久しぶりな気がしてそれだけでも楽しかった。

だがこれは、使ってこそ意味のある物だ。

ショップバックを横目で気にしながら、暁は手早くジャケットを脱ぎネクタイを緩める。

ここのところ、少しばかり気になる事が出来てしまった。

原因は、包容力があり過ぎるまでにある恋人・香坂だ。

彼と交際を初めて数か月。

香坂の時間がある限り連日連夜でも夕飯に誘われては豪華で旨い食事をとっていた。

だが、豪華で旨い食事、高カロリーでもある確率が高い。

これまでならば年何度も食べないような食事を日を空けずに摂取し続けた結果───暁は少々体重が増加してしまったのである。

まだ目に見える変化があった訳でも、身体が重くなった訳ではない。

だが、体感してから焦っては遅すぎる。

「よし、今晩から走るぞ」

暁はショップバックから真新しいジャージとランニングシューズを取り出すと、決意を固めるように呟いた。

ここ何年も運動らしい運動をしていなかったが、ランニングであれば手軽に始められる。

せっかくなので早速今夜から自宅の周辺を走るつもりだ。

夕食を食べ一服してからか、それとも今すぐに走りその後夕食を取るべきか。

シャツのボタンを外しながらぼんやりと考えていると、玄関の方で物音が聞こえた。

「ただいまぁ。疲れたわぁ」

軽い調子で言いながら部屋に入って来たのは、誰あろう香坂だ。

髪をグシャグシャと乱しながら暁に近づいた香坂は、さも当然だとばかりに暁を後ろから抱きしめた。

こんな時間に彼が帰宅するのは珍しい。

今晩は夕食に誘われなかった為帰宅は遅いのかと思っていたというのに。

「おかえり。早かったな」

「ちょっとな。その代わりまだ報告受けなあかんねんけど。・・・それよりこれ、どないしたん?」

暁に絡みついたまま、香坂は片手を離すとダイニングテーブルに出したばかりのランニングセット一式を示した。

普段スポーツなどしていない暁だけに、スポーツウェアの存在に疑問を感じたのだろう。

それが伝わると、暁は照れくさそうにしながらも香坂を振り返った。

「ちょっとさ、今晩からランニングしようと思って」

「・・・ランニング?走るん?」

「うん。なんかさ、このままだったら太りそうで。それに俺ももうちょっとさ引き締まった身体になりたいなぁって。まぁ、甲斐程は無理かもしれないけどさ」

香坂は生まれ持った物自体に恵まれているのだろう。

厚い胸板も、太い首も、男なら憧れる物を兼ね備えている。

その彼と比べるのは愚かしくも思えるが、努力をしないままたるんだ身体になってしまう自分を思い浮かべればぞっとした。

「ってことで、もうちょっとしたら行って来る」

「それって一人で行くん?」

「うん、そうだけど?」

「そうか・・・。じゃぁ、俺も行くわ」

「・・・は?」

「これからもずっとな」

ただ首を捻っていた体勢から暁は香坂を身体ごと振り返りきると、そこに居た彼はニヤリと笑った。

香坂も一緒に走る。

それは楽しそうな、けれど面倒くさそうな気もする。

第一、今後も香坂と走る約束をしてしまえば、彼の帰宅時間に合わさなければならない。

それはとても煩わしい。

「えぇー」

「そんな嫌そうな顔せんといてや。な、決まりな」

「でも・・・」

とりあえず今晩は良い。

だがどうにか明確な約束は避けたい。

旨く逃げきる方法はないかと暁は言葉を探したが、頭に浮かんだ言い訳はどれも説得力に欠けるものであった。

そうしていると、暁が名案を思いつくよりも早く玄関とこの部屋を繋ぐ仕切り扉が開けられた。

「こんばんは、美原さん。甲斐、例の件、承諾得られましたよ」

チャイムもノックも無く無断で入って来たのは花岡だ。

玄関を通って来た音も聞こえず、もしかするとチャイムやノックをしたのかも知れないが、香坂との話に夢中になっていた暁は聞こえなかった。

宵の口であっても隙一つ伺えない様子の花岡は、すました面持で暁に会釈を送る。

先ほど香坂が報告を受けなければならないと言っていたのはこの事だったようで、花岡の出現に驚きを見せなかった。

「わかった、わかった。じゃぁ明日するわ」

「よろしくお願いします」

「はいはい。・・・、そういうたらな、俺今晩から走る事にしたわ」

鬱陶しそうに片手を振りながら適当な返答を返した香坂は、何でもないとばかりに花岡へ告げた。

やはり香坂はついてくるつもりのようだ。

断る理由は見つけられない。

大きなため息が漏れるのを暁が堪えていると、花岡はノーフレーム眼鏡の奥の瞳を尖らせた。

「は?何言うてるんですか。あかんに決まってるでしょ」

「えぇー。そうなん?だって暁が一人で走る言うから」

「美原さんが一人で走るんもあきませんよ。何考えてるんですか」

「・・・え?」

香坂に食って掛かる花岡は苛立ちを露わにしている。

まさか彼に反対されるなど少しも考えはしていなかった。

盛大なため息を吐いて見せる花岡を、暁はただ呆然と見つめた。

「えっと、だめ・・・なんですか?」

「あきませんよ。危ないでしょう」

「危ないって・・・。俺、一応成人の男なんで夜道くらい・・・」

「成人の男性ですけど、香坂組若頭の愛人でもあるんですよ。自分の立場を解ってください。甲斐もです。あんたは余計あかんてぐらい、ちょっと考えたら解るでしょ」

「そんな・・・・」

若頭の愛人。

自覚と言われても、何をどう自覚するべきなのか直ぐには理解出来ない。

ただ今のように、香坂と付き合う事はただ恋人同士愛し合うだけではいられない事態があると、これまでも何度か経験はしている。

「はいはい。しゃーないな。暁、あかんて」

言葉が続かない暁を余所にあっさりと花岡の意見を受け入れる辺り、香坂はこうなると解っていたのだろうか。

鋭い花岡の視線に暁は頷くしかなかった。

「解りました。・・・じゃぁ、でもどうしよう・・・」

「ランニングがしたいんですか?それやったら甲斐や私らが行ってるスポーツジムに通てください。手続きはこちらでしておきますから」

「良かったなぁ暁。ランニングでも水泳でも好きなだけしぃな」

「スポーツジム!?」

ランニングをする為だけに大金を掛けるなど暁の選択肢にはない。

自分からなら絶対に行きはしないだろう。

けれど、真っ直ぐに注がれる香坂と花岡の視線が拒絶を許さないと告げている。

「これで心置きなく一緒に走れるな」

嬉しげに声を弾ませる香坂に肩を叩かれた。

一緒という約束は面倒だ。

けれど、ルームランナーならばまだ随分とマシだろう。

それが後押しとなり諦めた暁は、花岡に『よろしくお願いします』と頭を下げたのだった。






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