ストーカー編・17



帰宅し自宅玄関に上がるなり、幸田は大きなため息を零した。

疲労感そして安堵感が一気に訪れ、ともすればこの場に身体が崩れてしまいそうだ。

あの後、事件の事情聴取として幸田も直ぐに警察署へ呼ばるところを、室町の口ぞえのお陰で後日にして貰えた。

その時は特別何とも思わなかったが今にして思うととても助かっており、もしもこれから警察署に行かなければならなかったら、と考えるとどっと疲れてしまう。

もう一度大きく息を吸い込み、ため息ではなく深呼吸として吐き出すと幸田は靴を脱ぎ自室へ向かった。

なにはともあれ息苦しいネクタイを首から引き抜き、シャツのボタンを外す。

ラフな部屋着に着替え、一度腰を落ち着かせてしまえば動くのが億劫になりそうだと、息つく間も惜しんでキッチンに立った。

「んー何が出来るかなぁ」

二人暮らしにはいささか大きな冷蔵庫の中を覗き、幸田は思わず眉を顰める。

やはりというべきか、想像はしていたが冷蔵庫の中にはろくな物が入っていない。

ろくな物が無いというよりも、夕食の食材になりそうな物はない、と言った方が正確で、いくら栄養ドリンクやビールが充実していたところで今の幸田には有りがたくはなかった。

今からでも買い物に行くべきか。

ストーカー犯という杞憂がなくなったので、スーパーへ行くに躊躇う必要は無くなっている───などと考えていると、玄関から物音が聞こえた。

「・・・春海さん、だよな?」

つい独り言が口を吐いてしまったけれど他に誰である筈もなく、幸田は冷蔵庫を閉めると玄関とメインルームを繋ぐ仕切り戸を見つめる。

彼が「今すぐに帰る」と言っていたらしい事は室町から聞いているが、それにしてもあまりに早い。

この分では本当にあの電話の後直ぐに席を立ったのではないか。

そう思い当たると居ても立ってもいられず玄関に向かおうとしたが、時既に遅く、幸田が足を出したと同じタイミングで仕切り扉は開けられた。

「ただいま、恭一。大丈夫だったか?」

早口に言いそして姿を見るなり足早に歩み寄った三城はビジネスバッグを乱雑に床に置くと、すかさず幸田の肩に両手を掛けた。

男の平均よりも少し細め、三城に比べるならば随分と華奢にすら感じられるそこをがっしり掴まれると、つい気迫負けをしてしまいそうだ。

自由な両手でやんわりと三城の胸に触れ、幸田は苦笑を浮かべた。

「おかえりなさい。春海さん早かったね、お仕事大丈夫?」

「あぁ、一日くらい構わない。それより、大丈夫なのか?怪我はないのか?犯人はナイフを持ってたと聞いたが」

「僕は大丈夫。ナイフは持ってたけど、室町さんが直ぐに取り押さえてくれたから。僕は逃げただけ。情けないね」

犯人とその手の中のナイフが恐ろしくて、ただ逃げるしか出来なかったのだ。

入れ違いに犯人に向かった室町を目にした時、何故わざわざそんな事をするのだと青ざめたが、それと同時に深く感心もした。

自分は到底そんな真似は出来ないなと、容姿という面だけではなく室町は格好良かった。

「情けないなどあるか。あいつは警官だぞ。武道が身についていて当たり前だし、犯人を捕まえるのは仕事だ。恭一が妙な正義感で犯人に立ち向かわなくて本当に良かった」

「立ち向かうなんて全然考えれなかったよ。正直、とても怖かったし・・・」

「そりゃぁ、ナイフなど持ち出されれば誰だって怖いさ。そんな事よりも、恭一に怪我が無くて本当に良かった。恭一が怪我でもしていたら、俺が犯人を許せたか自信が無い」

肩を掴んでいた三城の手が離れたかと思うと、それは背中に回され両腕で全身をしっかりと抱きしめられた。

身動き出来ない程の抱擁は、それだけ彼に心配を掛けたのだろう。

あんなにも三城が写真の送り主をストーカーだと言い張っていたというのに、聡明な彼の意見を無視していた自分はなんとも愚かしい。

このような事件にまで発展してしまった今となっては、ナイフを持った犯人から逃げた事よりも、その事実の方が余程恥ずかしく思えた。

「ごめんなさい、春海さん」

「どうした?」

「ストーカーさ、そんなんじゃないって言い張ってたのに。結局本物だったし、心配とか迷惑も掛けてしまったから」

「もう良い。お前が無事で、犯人も捕まったのだからそれで良いんだ」

「ありがとう。春海さん・・・大好き」

「あぁ」

背中に回されていた三城の腕は、一際強く抱きしめられたかと思うとそれ以上は何もなく離れていった。

「久しぶりに平日に早く帰って来られたんだ、飯でも食いに行くか?」

「え、でも・・・」

三城は土曜も日曜も仕事で、今も相当な無理をしてそれでも幸田を心配して早く帰って来てくれたのだと思う。

疲れているだろう事は想像に難くなく、ならばこれ以上負担を掛けるのは如何なものか。

幸田の思惟は伝わったのだろう、三城は柔らかく目を細めた。

「俺だって息抜きもしたいしな。どうだ?今日は恭一の好きな物で構わない」

手持ち無沙汰に三城の指先が幸田の髪を弄る。

独断専行型の三城が幸田に行き先を委ねるのは珍しく、仕草や表情もそうであるように今日は甘やかされているのだろう。

三城の身体が心配だ、けれど今は彼の行為を素直に受け取る事にした。

「何処が良い?」

「そうだな、えっと・・・春海さんのお勧め、がいいかな」

馴れない事は急には出来ないもので、結局希望の料理を思い付けなかった幸田は誤魔化すように笑った。

これを別の言葉で言うならば、「何でも良い」と同義語だ。

メニューなど何でも良くて、ただ三城と一緒であればそれが何よりも重要であり、どんな物でも美味しく感じられる。

「そうか。なら、鉄板焼きはどうだ?」

「うん、それが良い。春海さんはそのままだよね?待ってて、すぐ着替えてくるから」

「急がなくてもいい」

背中で三城がそう言っても自然と足は速くなってしまい、幸田は私室に入るなりクロゼットルームに飛び込んだ。

こんな事なら着替えなければ良かった、などと考えながらもその心境は後悔とは程遠く、ウキウキと頬が緩む。

終焉を迎えた事件、思いがけない三城とのデート。

再びカッターシャツに袖を通した幸田は、お気に入りのネクタイを手に取ったのだった。





 
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