蒼の虚実   試し読み [本文より抜粋]



 大阪市内の一等地。オフィス街から幾筋か入った住宅街の一角の広大な敷地に立派な日本庭園を抱え、香坂組[こうさか]本部は存在した。

「おぉおぉ、どこの若造か思たら。香坂の次期組長やないか」

 純日本家屋の縁側で中肉中背の男がさも好意的に胸を叩くと、香坂甲斐[こうさか・かい]もまたにこやかに笑みを返した。

「石井[いしい]理事長、そんなんあんまり大きい声で言うたらあきませんわ。冗談通じひんもんに怒られてまう」

「何やそれ。お前かて声でかいやないか」

「そおですか? 俺の声がでかいんは地ぃやからしゃぁないですわ」

 香坂が笑えば石井和夫[かずお]も笑う。それを座敷の奥から遠巻きに見ている連中がどのような顔をしているのか、少なくとも香坂は承知の筈だ。

 香坂組現組長の嫡男であり香坂組若頭。それが、香坂甲斐と言う男の肩書きと立場だ。だというのに香坂は常にふざけたように楽天的に振る舞うばかりで、今のように挑発的な言葉や態度も頻繁だ。むしろ、そうする事こそに楽しみを見いだしているような質の悪さがある。

「そないなったらお前の代わりに若頭なるんはどっちや? 二人でもえぇし、皆総入れ替えもえぇ……あかん、そないな事なったらワシも危ないわ」

「またまた。俺がどないなっても、世話なってる石井理事長は捨てるわけあらへんし、むしろもっとえぇとこ居ってもらいますよ。せやな、石井理事長こそ若頭どないです?」

「ハハッ、お前はまた適当な事言うて。なぁ、村崎も困るやろ」

 石井が香坂の後ろへ視線を向けると、名を呼ばれた村崎郁[むらさき・かおる]が、ふと口元を緩めた。その笑みはどこか妖しく、そして艶めかしい。すっと腕を伸ばし村崎は、香坂の腕へと触れた。

「僕は、甲斐……香坂若頭が決めはった事にはついてゆきますから。もし、僕を切るぅ言われても従います」

「切るて。腹心中の腹心のあんたらを切ったりせぇへんやろ」

「僕も、そない思て香坂若頭を信頼してますけど、でも何があっても、いう僕の覚悟の一つです」

 ゆっくりとした口調は、香坂や石井と違う響きを持つ京訛りだ。村崎が香坂の腕に身体を寄せている姿を廊下の端や石井の後ろからどのように見られているのか、村崎もまた承知の上での所行だろう。

 香坂組若頭補佐。香坂の腹心の一人で常に秘書のように近くに居るが、その立ち振る舞いは今のように単なる上下関係を一線越える場面が多々ある。しかしそれは単なる惑わかし、遊びだ。村崎には「狗」と呼んでいる名の通りペットのような男が何名も居り、この場にも数名居るようだ。それを分かった上で、香坂との仲をまるで見せつけるように振る舞う辺り、面白がっているとしか思えない。

「えぇこっちゃ、まぁ、頑張ってや。花岡もや」

「はい、ありがとうございます」

「あんたの活躍も聞いてるで。こいつがやって来れてんのもあんたのお陰やてな」
「とんでもありません。私も、ただ香坂若頭について行くと決めただけの事」

「そうか、そうか。そういう事にしといたるけどな」

 村崎の反対奥へ石井が視線を向ける。にやりとした笑みを目に、香坂の後ろで花岡静也[はなおか・しずや]は黙礼を返した。しかし本心としては、そこにある言葉の全てが嘘だ。

 ふざけて敵を作りに向かう香坂にも村崎にもほとほと辟易している。勝手に火種を作り煙を上げ、そして大火事を作って来るくせに、その後始末は総じて花岡の仕事だ。建前と社交辞令を何重にも重ね香坂の二歩後ろで背筋を伸ばすが、それはただ此処が香坂組の本部であるからに過ぎない。

「うちもいつあんたの世話になるか分かれへんから、そん時はよろしゅうな」

「はい。その時はもちろん、尽力を尽くさせて頂きます」

 ビジネススマイルを浮かべ、花岡は真っ直ぐに石井を見やった。その表情は自信に溢れ、威圧感すらある。それぐらいでないと足下を見られ、この仕事を勤められないと言うのが花岡の持論だ。

 村崎と並ぶ香坂組若頭補佐。そして、香坂組顧問弁護士、それが花岡の肩書きである。

 香坂組本部でのみ付ける家紋のバッチの下に、日常的に付けている向日葵と天秤のバッチが光る。正真正銘本物のそれは、花岡の立場だけではなくその中に眠る知識をも見せつけている。

「ほな、ワシはこれで。女が待ってんねや」

「えぇやないですか。羨ましいわぁ」

「若い別嬪[べっぴん]や。ほなな」

 石井が片手を上げ、背後の側近を従え玄関へと歩いていった。どこまでが本気であるのか掴めない男だが、危険分子の香りは少ない。立ち止まったまま見送る香坂の背中を、そして石井を眺め、花岡はそっと眼鏡のブリッジを押し上げた。

「私達も戻りましょう。社の方で報告をしたい事があります」

「……報告? そんなん聞いてへんで」

「はい、申し訳ありませんが先ほど出来たばかりの案件です」

「……さっき? って今?」

「そう、とって頂いても結構です」

 静かに告げる花岡の声音は凛と研ぎ澄まされている。温もりを感じさせないそれは、響く相手には響いたのだろう。

 軽く会釈をし香坂の眼差しを見つめと、途端に彼は頬をひきつらせた。

「……とりあえず、帰ろか。な。な」

「そうですねぇ。僕もはよ、香坂若頭と二人きりなりたいわ」

「村崎はいつでも可愛いやっちゃなぁ」

 尚も繰り返す二人は、けれど足早に花岡から離れていった。いくらこの場で距離を取ったところで、今から戻る先は同じなのだからあまり意味は感じない。

 周囲の目からため息を飲み込む。此処が香坂組本部でさえなければ、周囲に幹部連中さえ居なければ、同じようにはさせなかった。

 香坂と村崎が廊下を曲がり花岡の視界から姿を消す。あえてそれを待っていた花岡が足を踏み出し掛けた、その時だ。不意に背後から掛けられた声に、出した足を不本意ながら元へと戻した。

「花岡、ちょっとえぇか」

「……岸[きし]執行委員長」

「わざわざあんた一人なるん待っとったんやで」

 ゆっくりと振り返ると、花岡を呼び止めた男はまだ初夏になったばかりだというのに額にだらだらと汗をかいていた。中年太りも度の過ぎた体型に、ボタンの張りつめたジャケット。禿始めた髪も、どこをとっても整然さのない印象だ。

 香坂組執行委員長・史勇会長[しゆう]・岸哲郎[てつろう]。実力はともかくとして、地位だけならば花岡よりも勝る男だ。無視も無碍にも出来ないと、花岡は岸にきちんと向き直った。

「私に何か?」

「あんたに用事やいうたら一個しかあらへんやろ。頼みたい事あるんや、事務所来てくれへんか?」

「一個、ですか。……はい。いつお伺いすればよろしいでしょうか」

「今や。今すぐ」

 花岡よりも二十センチ程度低い身長で、岸は唾をまき散らす。此処が香坂組本部でさえなければと、今日何度も香坂と村崎に感じたものと同じ愚痴を内心で繰り返した。

 しかし、絶対的な縦社会である極道社会において、岸は花岡よりもたった一つだけでも役職が上だ。元来ヤクザの肩書きになど興味のない花岡も、こういった場面では若頭補佐で甘んじる事にもどかしさがある。

「申し訳ありません。今から香坂若頭と約束があります」

「な……や、若しぃと約束や、いうんやったら、まぁそりゃ、しゃぁないな」

「明日以降で……」

「若しぃとの約束終わるん何時や? それ終わってから来いや」

「終わってから、ですか。ですが何時に……」

「何時でも構へん。アレのせいでワシの予定が別の日にされるなんや気ぃすまへんねや。夜中でも待っといたる」

 花岡へ一歩を踏み出した岸は、憎々しげにしていた。岸が「反香坂甲斐派」である事は有名だ。上役に対する物言いの悪さを糾弾する事も出来たが、花岡自身今は特に香坂をかばいたい気分ではない。今夜の予定を考えれば拒絶をしたかった。しかし、どこで何が噂に立つかも分からない身内内で、下手な嘘は己の首を絞めるだけだ。

「分かりました。夕方以降夜になりますが、出来るだけ早くお伺いします」

「そうか、助かるわ。ワシらもな、さっき話しとったんやで。あの若しぃが若頭やってれんのは、あんたが居るからやってなぁ。頼りにしてんで」

「……では、また後ほど」

 つい今し方石井に掛けられた言葉と酷似をしている。だが、言葉の端々に受ける印象はまるで違う。

 肯定はしないながらに否定もせず、花岡は岸に頭を下げる。そうすると岸は、後ろにぞろぞろに同じような肥満体の身体を揺らす男らを引き連れ花岡の前を通って行った。

 人を見かけで判断してはならない。小学生が教師や親から教えられる格言の一つだが、それは一般社会どころかヤクザ社会にも通じる言葉だ。否、小学生よりも何倍も必要かもしれない。

「……腹、減ったな」

 岸とその尾鰭が廊下を曲がり姿を消す。それから更に十秒を数え、今度こそ花岡も歩き出したのだった。