プリンシバル   試し読み [本文より抜粋]



 肌に心地の良いシーツに包まれ目を覚ます。自宅ではない見慣れた壁を眺めぼんやりしていると、徐々に思考が晴れ渡ってゆく。ふと背後を横目で見たが、人一人分以上のスペースのあるそこは今は無人だ。

「ん……」

 目をしばたたせながら身体を起こすと、見下ろした裸の胸には赤い痕が散っていた。

「つけるなって言ってんのに……」

 とはいえ隠そうと思えばどうとでも隠せる事を彼は知っているのだろう。本気で嫌がれば絶対にしないという信頼も彼には芽生えている。

 昨晩の性行の後下着一枚をひっかけ眠ったのははっきりと覚えていた。このような事を続けていれば風邪をひきかねない。そうなってはプロ失格だ。必ず訪れる「次」に気をつけようと脳裏を過らせながら、伊吹夏樹[いぶき・なつき]は天井に腕を向け大きく延びをするとベッドから降り立った。

 フランスから帰国し一ヶ月と数週間。あの日訪れた黒川仁[くろかわ・じん]の家に、夏樹は以来頻繁に訪れている。「訪れる」という表現ではもはやしっくりと来ない。下着や部屋着どころかレッスン着の代えも置いている辺り、立派に「半同棲」だ。

 昨日も朝に袖を通しただけのルームウェアをひっかける。ハーフパンツも履くと、黒川がつけた印は全て見えなくなった。つまるところレッスン着を着ても隠れるという事で、決して首筋や胸の浅い部分に付けない辺り、黒川も場所は選んでいるようだ。

 寝乱れた髪を手櫛で整えると、夏樹は寝室の扉を押し開けた。

「仁、おはよう」

「起きたか。起こそうと思ってたところだ。コーヒー入ったぞ」

「ありがとう」

 キッチンに面したメインルームの隅に置かれた黒く冷たい印象のあるダイニングテーブルには、二人分のコーヒーカップが置かれている。一方にはミルク入り、もう一方はブラックのまま。所定位置の決まっているそれの、夏樹は茶色く色ついた物の前の椅子を引いた。

 以前は簡素な印象ばかりであった黒川の自宅も今は徐々に物が増えている。食器や買い置きの飲料が二人分になり、そこから出るゴミも二人分。夏樹が置きっぱなしにしているバレエ関係の雑誌やパンフレットは、いつの間にか専用の棚が用意されそこに収納されていた。

「今日の帰りは遅いのか?」

「うん。っていうか、当分遅くなりそう」

「そうか。丁度良かった。俺も暫く忙しくなりそうだ」

「仁も?」

 夏樹が席についたのを追うように、彼もその向かいに座る。片手でコーヒーカップを持ち上げる傍ら、彼は空いている手でテーブルの隅に置かれた煙草に手を伸ばした。中身が多いのだろう。ソフトケースのそれはまだヨレた印象はない。

「あぁ。だが夜は帰って来られるし、朝まで居る。お前もこっちに帰って来い」

「あー、うん。レッスン場はどっちが近いかな。交通の便で言ったらこっちかな」

「車も持ってこい。このマンションか、そうでなくても近くで駐車場を探してやる」

「んー……そうだな。その方が良いかも。乗らないと車もバッテリー上がってしまうし」

「だろ」

 ここ数週間は自宅に帰る方が少ない。たまには黒川が夏樹の家にくれば一石二鳥、否三鳥にも四鳥にもなりそうだが、しかし見るからにサラリーマンらしからぬ夏樹の家に、更にサラリーマンらしからぬ黒川が頻繁に出入りをしている様は近隣住人の目に止まりやすい。そのうえ、黒川の家よりも壁が薄そうだとも思えば、結局は此処が最善だと考え落ち着いている。車のバッテリーの心配をしなければならない程恋人の家に入り浸る日が来ようとは、つい数ヶ月前までは考えられなかった。

「あ、仁。そういえば話が……」

「そろそろ飯食いに行くか。目は覚めただろ?」

「うん、分かった。待って、簡単に着替えてくる」

 中身が半分以下であったコーヒーを一気に喉へ流し込む。まだ熱いそれに目を見張ったが、途中で止める事も出来ず飲み干した。

 部屋着をひっかけただけの夏樹とは違い、黒川は既にワイシャツとスラックスを身につけている。夏樹が着替えている間に彼はジャケットへ袖を通すのだろう。暦上は秋の終わりの今、シャツだけでは些か寒い。

「慌てなくても良い。転んで怪我でもされた方が面倒だ」

「……転ばないよ」

 じとっと黒川へ視線を向けると、煙草を指に挟んだ手で口元を隠してもその目は笑っていた。

 白い天井へ細い煙が一本あがる。一瞬そこへ気を取られた夏樹は、けれど彼からの視線を感じ、寝室へと小走りに駆け出したのだった。