輪廻楼・短編集   試し読み [本文より抜粋]
(終わり良ければ)


 一週間に何度この場所でこうしているだろうかと、目の前の課長の怒鳴り声を右から左へ聞き流しながら、小里純也[こざと・じゅんや]は平謝りを繰り返した。

一応は東京の都内であるものの、都心と呼ばれる中心部からは外れた地域に建つオフィスビル。

十階に満たないこのビルに、純也の勤めるキナシマーケティングはあった。

「分かってるのか。お前は何ヶ月、新規契約結んで来れてないんだ」

「はい……分かって、ます」

「大体お前は───」

 事務机が向かい合わせで計八つ。

その側面を向きもう一つが置かれた特別配置の課長席の前で、純也は肩を竦める。

 課長・小倉[おぐら]の叱責はいつも決まっている。

今月も今日で終わりだというのに、純也は新規の契約を一件も取れていない。

今年度で言っても、六月の今は三ヶ月が経とうとしているのにたった二件だけだ。

 キナシマーケティングは、弁当の製造販売をしている味一品弁当の営業専門の子会社である。

その中でも純也の所属する企業担当部はその名の通り企業を中心に昼食の弁当の定期配達の営業をしていた。

 純也も、既に契約のある会社へ新商品を売ったり、契約日数や個数を増やしたりはしている。

しかし全く新しい会社となると、人見知り気味の性格が災いしなかなか思うようにいかなかった。

不況の世の中、ただ味に自信があるだけの弁当では話すら聞いても貰えない。

 純也は純也なりに精一杯やっている。だが努力がそれだけで評価をされるのは学生の内で、社会に出れば結果こそが全てだ。

「……頑張ります」

「頑張ります、だけじゃ駄目なんだよ。契約取って来い! 今日も無かったらリストラ候補に入れるからな!」

「り、リストラ!? それは……」

「俺だってなぁ、庇いきれないんだよ。分かる? リストラが嫌だったら契約取って来い! 分かったらさっさと行け!」

「はいっ……失礼します」

 動揺を隠せない返答をし小倉に背を向ける。

連日の説教だけでも堪えていたが、リストラを出されると平常心ではいられない。

日中は座る事も少ないデスクに寄りビジネスバッグだけを掴むと、純也は足を縺れさせながらオフィスを飛び出した。

 しかし、いくらオフィスを出たところで行く当てはない。今日もまた外回りだが、どうしたところで昨日やその前と同じく契約など取れるとは思えなかった。

 昨日もその前も、その前もずっと、真剣に走り回り頭を下げ続けている。

年上にも年下にも邪険に扱われ、いっそ口汚く追い払われても耐えているが、けれど結果はこれだ。

「頑張って、るんだけどな……」

 新商品の弁当ならば、多少単価が上がっても既に契約のある企業へ初日に一番多く売った事が何度もある。

これまで培ってきた信頼関係から、初めは週一度だった契約を週五日に変えた事もある。

 入社四年目、二十六歳。

人見知りがちで見るからにおっとりとした純也は、人当たりの良さだけは定評があった。

真っ直ぐな言葉と真摯な眼差しが良い、と年輩の企業社長や重役には評判だ。

しかし一方で、若い世代には時代遅れに感じられるらしい。

 百七十センチ代前半の身長と中肉中背の身体には、安価を売りにしているメーカーのスーツがいやに似合う。

細い黒のメタルフレームの眼鏡も、歩き回りくたびれた靴も似たような質で、それらが純也の生活レベルそのものだ。

 営業職故に髪は頻繁に整えているが、洒落たカットサロンなど時間も価格も追いつかないからといつも駅前の千円カット。

無難な髪型だがやぼったさは拭えない。

清潔感は大切だが、それ以上の身なりになど純也は興味もなければ意識を向ける余裕もなかった。

「手と……顔洗って気合入れよう……」

 今すぐ社屋を走り出したところで、高くなりつつ日差しに照り付けられるだけだ。行く当てを見つけるには、冷静さを取り戻すのも近道だろう。

 フロアの隅へ向かうと、軽い扉を押し開け男子トイレに入る。

小便器が三つと個室が二つ、洗面台は一つしかないそこには、見知った先客が二人居た。

「───だって。松神[まつがみ]ってしてるって」
「そりゃお前、単なるひがみだろ」
「違うって。じゃなかったら、あんなに契約とって来れるかよ……あ、純也」

 洗面台に寄りかかり立つ同僚・森啓介[もり・けいすけ]が顔を上げ、入ってきたばかりの純也を眺める。

その声につられ園田悟郎[そのだ・ごろう]が振り返ったが、二人は特に何をする事もなく立ち話をしているようだ。

つまるところサボタージュ中なのだろう。

 二人共純也よりも一つ年上の先輩で、純也程ではないにしろ成績優秀とは言えない営業マンだ。

思わず此処に揃った三人は皆、期待の新入社員とベテラン営業マン、今し方名前が耳に入ったキャリアウーマンの松神に毎月毎月遥か上の成績を行かれていた。

「松神さんがどうしたんですか?」

「こいつがさ、松神が枕営業してるって言うんだよ」

「ま、枕!? って、えっとホストとかがする……」

 洗面台が塞がれているので顔どころか手も洗えない。

仕方がないからと園田の隣に並んだ純也は、日常的に聞き慣れない単語に森と園田の顔を交互に見やった。

 そのような噂を聞いたのは、松神のみならず初めてだ。

唖然とする純也に森はニタリと笑い、園田は呆れたようにため息を吐き出した。

「信憑性なんてないんだけどな」

「絶対してるって。じゃなかったらあいつがあんなバンバン契約取って来れるかよ。今月だけで五件だろ?」

「飛躍しすぎ。でもまぁ……あれだけの顔とスタイルあったら色気でサインさせるぐらい出来るかもな」

「だろ?」

 森を否定しながらも園田は苦笑を漏らす。

話に入っていけないまま、やはり純也はただ呆然とするばかりだ。

 園田が言うように、松神は美人だ。年齢は二十代後半で、いつも膝より短い丈のタイトスカートのスーツをビシリと着こなしている。

シャツは大抵パステルカラーで、いつも開襟の胸元にダイヤのネックレスを落としていた記憶があるが、言われてみるといささか大胆に開けられていた気がしないでもない。

「女は良いよなぁ。ちょっと胸でも触らせたら良いんじゃね。でも……」

 どこまで本気なのか。

多分園田が言うようにただのひがみなのだろう。

疲れ切った様子で洗面台に手をついた森は、笑みを深め純也の顔を覗き込んだ。

「男でも、お前だったら良いっていうおっさん居るかもな」

「え……なんですか、それ」

「お前男にしては可愛い顔してるし、男臭くねぇし。その眼鏡取ってさ」

「眼鏡取ったら、何も見えません」

「確かに言われてみると、良い線いくかもな」

「そんな、園田さんまで」

 松神の話をしていた時以上に軽い口調で二人は笑った。

 自身を可愛い顔だとも、男相手に何かがあるとも考えた事はない。

もしも本当にそのような色気や雰囲気があるなら、もっと早い段階で活用出来ていたのではないか。

リストラの話を出された直後とあり、縋れるなら何にでも縋りたい気分だ。

「そんな簡単に行きませんって。……それより僕そろそろ」

「もう行くのか? 頑張るねぇ」

「そういや、確かあのアビル社のさ、オオツキって部長がゲイだってそこで働いてる俺の友達が言ってたな」

「は? なんだそれ。そんな大企業の偉いさんが。どうせジジィだろ」

「いやいやそれはほんとだって。それにあそこ外資だろ? 部長つっても若くてさ……」

「えっと、じゃぁ僕は失礼します」

「おぉ、頑張れよー」

「そろそろお前やばいぞー。頑張ってこいよー」

 森と園田の声援をどこか遠くに感じながら、純也は背中でトイレの扉を閉めた。

結局顔どころか手すらも洗えなかったが、いくらかの息抜きと気分転換にはなった。

 今日で今月も終わり。

未だ契約はゼロ。リストラを目の前にぶら下げて、純也は社屋を走り出したのだった。