その心に刻んで   試し読み [本文より抜粋]



常より明るい仕事ではない。だが此処数日は、いつにも増して組織内がピリピリとしている。

極道として生きると決めた。中里について生涯を終えると決めた。けれど決して、重苦しい空気を好んで吸いたいと願っている訳ではない。

「頭、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

汐留に経つ霧島組所有の高層マンション。一般分譲を許していない最上階以下五階専用のエレベーターに乗り、遠藤は自宅フロアで降り立った。

エレベーターから自宅玄関までは廊下が真っ直ぐ一本だけ延び、真正面に目的の扉がある。左右に扉がいくつかあるものの民家ではなく、遠藤の自宅とは比べものにならない狭さの舎弟達の待機室だ。

宵の口を過ぎた時刻も、窓一つ無い廊下には時間の感覚を伝えない。大きく胸元を広げて派手な色のシャツを着こなす舎弟らが頭を下げる中、遠藤は言葉一つ掛けず足を進めた。

微妙な時間故に心配もしていたが、どうやらまだ就寝はしていないようだ。

玄関前で足を早めた腹心・千原一成[ちはら・かずなり]が玄関扉を開ける。それを当然だと受け止め、遠藤は自宅へと入った。

玄関に、明かりが灯る。そしてその奥の磨り硝子に彩られた仕切り扉の向こう、メインルームにもまた、柔らかい光が漏れていた。

以前――一年と少し前までは、たとえそこに明かりが灯っていても特別心躍らせる事もなかった。その先に待っているのは舎弟か女か。どちらにせよ、「ただある」という気持ちだった。けれど今は。

革靴を脱いでいると、仕切扉の向こう側からガタガタと微かな音がした。そうしている内に、その物音は徐々に大きくなり、遠藤は口元を緩ませると立ち止まった。

「ゆた! ゆた、おかえり」

「実、ただいま。良い子してたか?」

「うん。うん、みのいいこ、ね、じゅんくん、みのいいこね」

勢いよく開け放たれた扉から、遠藤実[えんどう・みのる]が転がり出た。さも嬉しげな笑みは、ただそれだけで目を奪われる。

実と交際し、共に暮らし初めて一年と少し。「ただいま」と「おかえり」を、当たり前の挨拶を当たり前に口にするようになったのは、実と暮らし初めてからだ。それ以外にも、実が思い出させてくれた事は様々ある。その一つ一つが、遠藤豊という男を人間にさせてゆく。

「まだ起きてたんだな。テレビでも見てたのか?」

気が急いているとありありと分かる様子の実は、足をひきずり上半身ばかりが前のめりになる。今にも倒れそうな様子を見てようやく遠藤は手を出すと、その身体を軽々と持ち上げた。

 一年前に手に入れ、養子縁組みもした遠藤の最愛の存在。先月十九歳になったばかりで身長は百五十六センチの、痩せ形。十年近くを病院で暮らしていた為出会った頃は今以上に痩せており、病院食から解放され自由に食べれるようになり肉付きも良くなったものの、太りにくい体質のようだ。
「あのね、みてた。でも、おわってね、それでねえっとね、みのね、ゆたまってたよ」

「俺を待ってたのか? 眠かっただろ?」

「でもね、みのね、ゆたに、こやってね、ぎゅ、してほしくてそれでね、まってた」

遠藤に背と腰を支えられ、その首に両腕を回した実はさも嬉しげに声を踊らせた。十九歳という年齢には幼い声も話し方も、遠藤の庇護欲を刺激する。

実には、先天性の知的障害がある。思考が遅く幼い。加えて後天性の膝の障害もあり、真っ直ぐに膝を伸ばす事も深く折る事も出来ず早く歩けない。

実を愛せなかった母親が実を傷つけ、捨てるように遠縁の親戚である櫻木総合病院に預けた。それを酷く恨みに思うが、それ故に今の実との生活もあるので複雑な心境だ。

身体を密着させあう実に、だらしなくも頬が歪む。そうしていると、逆立てた金髪がいかにもチンピラらしい男、実の世話係を任せている長谷川純一[はせがわ・じゅんいち]が、恐怖に顔をひきつらせ逃げるように千原の背後に回っていた。

「頭、では私はこれで」

「あぁ」

「明日も、いつもの時間にお迎えにあがります。その前に――」

「分かってる。いつも通りだろ」

「はい。では失礼します」

「ちーちゃん、じゅんくん、ばいばい。あ、ちがうね。おやすみなさいね」

「実さん、おやすみなさい。パジャマはちゃんと中に入れてくださいね。寝る前はあんまり飲み物とか……あー……すんません。おやすみなさい」

遠藤の背後、実の視線の先から長谷川の声がする。だがそれにすら気を止める事無く、遠藤はさっさと今は無人のメインルームへ入った。

長谷川は一日の圧倒的な時間を実と過ごしている。

実は知能の障害故に一人で居させる事は出来ず、誰でも面倒が見れるわけではない。長谷川だからこそ、実の面倒が見れている事も、長谷川なくてしてならない事も、十分に理解をしているつもりだ。だがそのうえで、どうしたところで面白くないと思うのも事実。

メインルームに入ると、ソファーと奥の扉を交互に見る。時刻は夜十時過ぎ。実の就寝時間を考えると、決して早くはない。

「実、眠いか?」

「みのね、ちょっとねむいね。でもゆたがいるから、がんばったよ」

「もう寝たいか?」

「ゆた、ねる?」

「そうだなぁ……」

「みのね、ゆたがねるなら、いっしょね」

「じゃぁ、一緒に寝るか」

「うん、うん。みの、ゆたとねるのうれしい」

肩に担いでいる為見えないが、実は声音や言葉から想像出来るのと違わぬ嬉しげな面もちをしている筈だ。けれど遠藤は、優しく語りかける口調とは裏腹、ニヤリと口元をそして目元を歪めていた。

ソファーなどもう視界の端にも入っていない。同じ言葉を使いながらも、遠藤と実では思い浮かべている物が違うだろう。けれどそれを訂正する気もなく、真っ直ぐに奥の扉、寝室へと遠藤は足を向けた。