須く・後編   試し読み [本文より抜粋]


 東京某所。指定暴力団宮川組総本部。
 各地から宮川組構成員であり直系団体の長が集まる定例会。会合後の恒例となった昼食会の席に海千山千の男が集う中、藤波克己[ふじなみ・かつみ]は静かに瓶ビールの注がれたグラスを傾けた。
「……毎度の事ながら」
 双方から聞こえる話し声や食器がぶつかり合う音。少なくとも表向きは交友的な場で、藤波の呟きは誰の耳にも届かずかき消される。
 宮川組は関東最大勢力を誇るだけではなく、関東を中心に全国に支部や直系団体を持つ。組織長・宮川組長と関西の最大勢力である香坂組・組長は兄弟の契りを交わした仲として有名であり、互いの組織同士も同盟を結ぶ懇親関係だ。そのうえ一年前、宮川組幹部であり直系・霧島組の若き組長が香坂組長の実子であり若頭を務める香坂甲斐[こうさか・かい]と兄弟盃を交わしたとして、組の内外だけではなく警察をも動かす話題となった。宮川組員と香坂組員の間で兄弟盃を交わされるのは、両組長同士以来の出来事だ。
 香坂組長の実子である事と何よりその実力から、香坂甲斐はいずれ香坂組を背負って立つと言われている。そのような重要人物との契りであった事も大きな要因だろう。
 霧島組は、代替わりをし現組長となってから飛ぶ鳥を落とす勢いのある組織だ。構成員の全体的な年齢も若く、怖い物などないかのような動きを見せている。
 しかし宮川組直系団体の中では、まだ最優勢を譲るつもりはない。
「藤波さん、一杯よろしいですか?」
「学[まなぶ]。いや、中里[なかざと]組長」
 襖が外された和室の広間の、上座から左右にコの字形を描くよう置かれた膳の向こう。中央のスペースに腰を下ろし、一際若い男が藤波にビール瓶を差し向けた。
 若いと言ったところで三十歳は越えている。ただこの集まりの年齢層は高い。それだけ、この場に立てる事が困難だとも言える。
 霧島組組長・中里学。宮川組長に次いで香坂組員と兄弟となった男だ。
「嫌味ですか?」
「何をだ。俺は宮川組員でもない。お前より随分と格下だ」
「時間の問題でしょう」
 ふと、藤波が鼻で笑う。「お前」などと呼びながらも続けた言葉に、中里もまた軽く笑った。
 藤波がこの世界に入り二十年以上が経つ。前組長の実子として若い頃から宮川組にも出入りをしていた中里とは古い付き合いだ。この集まりの中ではまだ年齢が近い事もあり、彼が組長として正式に定例会へ出席するようになってからはこうして頻繁に酒を酌み交わしている。その為このやりとりも毎度のお馴染み、挨拶のようなものだ。
 残りの少なかったビールを飲み干し、中里にグラスを差し出す。藤波のグラスへ八分目までビールを注ぐと、彼は持参した自分のグラスに手酌でそれを傾けた。
「さぁな。俺が決める事ではないし、何も決まっていない。だがお前は……中里組長は『組長』だ」
「次期宮川組長最有力候補には敵いませんよ」
「誰の事だかな」
「さぁ。俺の目の前に居る気がしますけどね」
「俺には見えん」
「そりゃそうでしょう」
 龍成会組長代行。それだけが藤波の持つ肩書きだ。この場に居るのも「代行」としてだけでしかなく、宮川組長の盃は受けていない。龍成会会長・岸本は宮川組・組長付きであり、龍成会に名を残しているものの権限の大部分を藤波に預けている。
 龍成会は数ある宮川組直系団体の中でも最も古く長く、最優勢を誇ってきた組織だ。現在宮川組系列団体として五次まで確認されているが、四次や五次組織の多くが龍成会の傘下だ。現宮川組長も元は龍成会の金看板であり、当時若頭であった岸本がその後を継いでいる。
 現在の若頭・中村は年齢的に岸本と変わらず、現在も組を動かしているのは藤波である事から次代の龍成会会長は藤波ではないかと、特に周囲は無責任に噂をしている。そして、龍成会会長の肩書きと共に宮川組に入会すれば、その地位は何処まで上がるや知れないとも、同時に噂が回っていた。
 冷やかしと嫌味の入り交じった陰口とも取れる。だがまんざらでもないのは、藤波本人ではなく二十年前に拾った男・岸本だ。
 ただ唯一藤波がついて行くと決めた男。心から信頼し心酔している男。地位や金の為ではない。ただ岸本が望むなら、上を目指したいとだけは思っている。
 もっとも、その為に岸本や彼が命を預けている宮川組長を蹴落とす気など一切ない。本末転倒だ。
 時期がくれば、次か、その次の代替わりがあれば、その場に立てるだけの力を現在は蓄えているところだ。たとえ今は中里よりも地位が低かったとしても。
 現状はこれで良い。焦り何かを見失う事は最も愚かしく、確実な歩みが大切だ。今はただ龍成会を保ち、そして発展を続ける。それだけが藤波の役割だと考える。
「それで? 香坂のボンとは仲良くやってるのか?」
「仲良く……そうですね。良くして頂いてますよ」
「あの男も噂が絶えんな」
「そうですね。そういえば、藤波さんも面白いホテルを作ってると聞きましたよ」
「俺が作ってるわけじゃない。オヤジがカタギの社長に頼まれた物を、俺が手を回しただけだ」
 現在施工中のSMプレイ特化型のラブホテルは、下町にありながらそれもまたマニアには好都合だと既に宣伝をしている。周囲の組織やその関連の耳に入っていても驚きはない。
 ついこの間までは寂れた製缶工場だった。しかしもうその後影は少しも残されていない。工場とそこで作られていた缶は世の市場から消え、職員は散り散りになった。
 けれどただ唯一、藤波の手に残っているものがある。
「ま、面白い拾い物はしたがな」
「拾い物?」
「いや、なんでもない」
 恨めしくてならなかった男の、置き土産。無意識に口元が緩む。
 中里が怪訝な顔をするのもいとわず緩む頬を隠すようグラスへ唇をつけた藤波は、朝合わせたばかりの面持ちを一瞬脳裏に浮かべては消した。