須く・前編   試し読み [本文より抜粋]



 安堂が予定を調整し系列の金融業者・朝日金融と示し合わせたのは、僅か翌日の事だった。

 詳しい場所は聞いていなかったが、連れて来られたそこは安堂から聞いていた情報通りの情景が広がっていた。

 高いビルがない、いかにも古くからある町といった雰囲気。住宅と工場が解け合うように存在する。錆びたシャッター付きのガレージと、近年増える無人のコインパーキング。高架を走る電車の音が数分置きに響きわたり、騒音と呼んで間違いはない。

 この前にあるのだから、土地としての価値は安いのだろう。もっとも、同じく騒音を立てる工場にとっては関係がないだろうし、防音設備を最高の物にしたラブホテルにも関係がなさそうだ。

 ここ榎本製缶は缶工場だという。それも缶詰用の缶を主に扱っているようだ。それだけ聞いただけでも、素人判断だとしても時代に取り残されているとしか藤波には思えない。

 榎本と顔見知りの取り立て屋・加藤がまず話をしに行き、次いで安堂が事の詳細を告げた。予測通りと言うべきか二つ返事で頷かない榎本に、「社員の目があるだろうから」と安堂が社長室で話をする事を進め、藤波がようやく彼らの元へ出向いた。

 全て、打ち合わせをしていなくても進む、当然のような流れだ。
「と……突然そんな事言われましても……」

「何も突然じゃないでしょ。うちへの返済、ずっと滞ってたの分かってますよね? 今すぐ借金全部、耳揃えて返せるんですか? じゃなかったら、担保取られるのが当たり前なんじゃないですかね?」

「それは……それは、そうなんですが、うちにも社員が居ますし、それに借金はそちらだけじゃ……」

 工場の隣りの、プレハブ小屋の事務所の更に奥の、見るからに低品質な木目調の扉の向こう。昭和の香りを感じさせる深緑のベロア調のソファーとガラス天板のセンターテーブル。四人掛けの応接セットの上座に藤波、その隣に安堂。藤波の向かいの一人掛けソファーに加藤、隣に置かれた同じ形のそれに榎本が腰掛ける。

 真横を向くよう身体を捻る加藤は、口調こそ丁寧だが声音は低く押さえつけるようだ。

 加藤は三十代前半、中肉中背。ノーネクタイでジャケットの前も止めていないが、黒い髪と無難な柄のスーツとシャツの為、一般の会社員にしか見えない。容姿も、良くも悪くもありふれている。

 肘掛けに腕を預け、加藤が榎本へと身を乗り出す。藤波そして安堂も、ただその様子を感情を伝えない面もちで眺めた。

 やりすぎなければ良い。藤波らは何も加藤を止めるおもり役でここに居るのではない。

 初めて会う、龍成会代行と代行付きに加藤も緊張をしているだろう事は、見ていればどことなく分かる。立ち振る舞いがぎこちなく、話し方にも波がある。だが加藤とてプロ。節度は、緊張の中でも理解をしているようだ。

 三者、それも加藤などとは比べものにならない威圧感を発する藤波らを前に言葉も出ない榎本が、ただ唇を開閉させる。青ざめ顔色は悪い。そうしていると、ノックのような音が聞こえた。

「……、……」

「は、入れ」

「失礼します」

 ノックのような、と表したのは、それが聞き慣れた拳を打ち鳴らす音とは明らかに違ったからだ。何かをぶつけるような、いっそ蹴りつけるような。乱暴なその音に不快感を感じると、藤波の眉間に微かに皺が寄った。

 肘掛に腕を付き、その手に顎を乗せる。若くもなければ年もいっていない、おそらく加藤と同年代だろう声が聞こえた扉を、胡乱な眼差しで眺めた。

 レバータイプのドアノブが落ちる。そしてそれが内側へと開かれると、声の主は身体で扉を押すようにしながら中へと入った。

「何でお前なんだよ。こ、こんな時に……」

「皆さん、仕事忙しいって……すみません」

「くれぐれも、失礼のないようにしろよ」

 唸るような榎本に、入ってきた男はおどおどとしながら頭を下げた。

 黒い髪が、鬱陶しく男の顔に掛かる。入ってきた時と同じように身体で扉を閉めたが、閉じきる事なく隙間が空いていた。

 会釈にように何度も頭を下げながら、男は榎本らの座るソファーの後ろ、彼ら越しに藤波の前を通ったがその彼に、目を、奪われた。

 何故ノックの音が奇妙だったのか、何故身体で扉を閉めたのか。それは一目で分かる。長袖の作業服の、右の袖が半分の位置で丸結びにされている。男の腕はそれよりも短くしかない、片腕なのだろう。

 だが藤波が目を見開いたのは、男の腕が片腕だからでも、歩く身体が不自然に揺れているからでもない。

「失礼します」

 片手で持った盆を丁寧に、けれど不器用に、センターテーブルに置く。二個ずつ重ねられていた湯飲みを四つ並べ、急須から緑茶を注いだ。

 うつむき、盆と湯飲みを真剣に眺める横顔。乱雑に伸びた髪が顔を隠し、今は容姿はよく見えない。だが、先程見えた顔が、見間違いだとは思わなかった。

「ごゆっくり……」

 四人分の茶を淹れ終わり、男は盆を手にする。藤波の視線など気が付いていないのだろう。そそくさと立ち上がり、前のめりになりながら元のように正面のソファーの後ろを通る。少し隙間を残していた扉に足をかけ開くと、室内に向けおざなりな礼だけを残し、男は部屋を出ていった。数秒の間を待ち、扉が完全に閉まる。ガチャリと乾いた金属音を聞くまで、藤波は男の出て行った扉から視線が離せなかった。

「死んだ、筈だろ……いや、年が……」

「代行? どうかされましたか?」

「すんません、普段なら事務の女に茶を持って来させるんですが、あいつ片腕でして、お見苦しいところを失礼しました。今後はくれぐれもあんな奴じゃなく……」

「いや、何でもない」

 早口に自身への弁明と男への罵りを口にする榎本の声など、もはや聞こえて来ない。元々興味の無かった、加藤と榎本のやりとりにも、もう気を向けられなかった。

 茶を運んで来た、片腕の男の顔が頭から離れない。

 とてもよく似ていた。同一人物かとすら思った。だが藤波の思う相手はもうこの世に居ない筈であり、そしてそれ以上に、藤波よりも年上だ。

「……別人だ」

 分かっている。ありえない。しかし何度心の中でそう繰り返そうとも、頭の中からあの容姿が消えてはくれない。

 借金取り立ての、名目上の「話し合い」を目の前にしながら、ただ事務所での時間は過ぎていった。