秋麗桃花   試し読み [本文より抜粋]



文化住宅の自宅は冬ともなれば扉をしめ切っていても隙間風が差し込み極寒となる。

だが家庭内の冷え込みは、それ以上だ。

それを嫌だと喚き世の中に反抗する事で何かを訴えようとして来たけれど、一体それは何になったのだろう。

むしろそうすればそうする程、自分ではない方向へ弊害が出ているのだと気が付いたのはつい最近の事だ。

だからこそ、決心がついた。

ただ喚くだけでは何も変わらない。

今の自分の非力さと、存在の小ささ。

自分一人で生きて行く事の未来の見えない絶望感。

それを感じた時、どんな物であったとしても帰る場所のあった贅沢を実感した。

「……っ、よし」

電柱の陰から自宅の玄関を睨みつけて二時間。

ようやくそこから父親が出て行ったのを確認すると、國本・良輝[くにもとよしき]は急いで自宅へと戻った。

錆びて今にも崩れそうな階段を鉄を踏みつける音を響かせ登り切れば、コンクリートむき出しの廊下をゆく。

人一人が通るのが精々のそこを一番端まで行くと、鍵の掛けられていない扉をスライドさせた。

入って直ぐは台所のある狭い板の間。

その奥に六畳の一間があるだけの空間で、四人が生活をしている。

作り付けの押入れしか収納が無く物が溢れかえり足の踏み場もない。

万年床の上に脱ぎ散らかした衣類。

ゴミか否かも分からない食べ物の容器や袋が散らばり、布団の上に置かれた灰皿からも吸殻が溢れている。

見慣れた光景だ。

その部屋の隅で探す事無く一つの塊を見ると、良輝は焦燥しきった声を上げた。

「モモ」

「……お、お兄ぃ、ちっ……ちゃん」

部屋の隅で膝を抱え蹲る三歳年下の弟の事だけが、何よりの気掛かりだ。

良輝は早足でモモの元まで行くとその前に膝をついた。

「おっおにぃ……」

「あのな、聞いてくれ」

「……」

「俺は、家を出る事にした」

薄暗い部屋で、モモの眼差しだけが真っ直ぐに突き刺さる。

生活保護受給者のくせに競馬だパチンコだと明け暮れ、朝も夜もなくアルコールを煽っている父親。

年甲斐もなく風俗で身体を売っては、その収入をブランド品と薬物で消費するだけの母親。

どちらも機嫌が悪ければ直ぐに手を上げた。

世間に反抗がしたいと派手に染めた良輝の髪や服装も彼らにとっては面白くない物のようで、顔を合わせれば途端に機嫌が悪くなる。

それを良輝に向ければ良いものを、彼らはより非力なモモに向けるものだから、それを回避する為にも良輝は滅多に帰宅をしなくなる。

そうしてろくでなしの両親への腹立たしさを発散する為だと暴力や犯罪を繰り返すしか出来ず、己も結局は奴らと何も変わらないのだと突き付けられた。

すさんだ生活。

その中で良輝にとってモモだけが、救いであり生きる意味に思えていた。

生きがいなどという恰好の良いものではない。

ただ自分しか守ってやる事の出来ないか弱き存在は、ゴミ屑のような生活の中で自尊心を震わせる事が出来た。

反抗をする事で不平不満をぶつける事の出来る良輝とは違う。

いつもただただ、部屋の隅に蹲り両親からの暴力にも黙って耐えるだけのモモ。

それは生まれつきの性格か、虐げられるばかりの人生で培ってしまったものか。

どちらにせよ良輝にしてみれば眩しくて、だからこそこれからも守ってやりたいと思っていた。

けれど、『思う』だけでは何も守れないのだともようやく気が付いたのだ。

「東京行って、金稼いで。それで直ぐに迎えに来るから。だからな、それまで待っててくれるか?」

「とっ…と、東、きっ……きょ?」

「あぁ。すぐ、戻ってくるから」

今のままでは、明日の自分の生活も分からない。

それでも自分一人だけならば何をしてでも、路上のごみを漁ってでも命を繋げるだろう。

これまでも似たようなものだった。

だが部屋の隅で蹲る事しか出来ないモモは、連れて行けない。

たとえ残飯であっても食事は得られるだろうし、両親が暴力を振るったとしても壁と屋根のある寝床がある。

「ちゃんと稼いで、迎えに来るから、な」

他に言葉はなかった。

ただただ、それが全てで。

「ぜっぜ……ぜった、たい?」

「あぁ、絶対だ。約束だ……あいつらには、内緒だぞ」

「う……うん」

膝を抱いたまま、モモは良輝を見つめて頷く。

父親にも母親にも知られずに出て行きたかった。

良輝の存在など気にも止めない両親故にそれはいつでも行えたが、それでも一旦両親が居ない時を狙い帰ってきたのは、モモにこれを伝える為だ。

いつか必ず帰ってくる。

だから待っていてほしい。

どんなに両親を恨んだところでモモだけは違う。

唯一血の繋がりに無償の庇護欲を持てる存在。

この感情があるからこそ、自分はまだまだ人間であるのだと安心する事も出来ていた。

放っておけばいつまでもこの部屋の隅で暴力に耐えるだけではないかと思えるモモに、きちんとした人生を与えてやりたい。

自分自身にしてももっと真っ当な生活をしたい。

だからこその一大決心であった。

「約束だからな」

いつ父親が帰ってくるやも知れず、そうすれば良輝の姿を見ただけでも機嫌は悪くなるだろう。

そうして暴行の手が向けられるのは良輝ではなくモモに対してだ。

此処に居続ける事は出来ない。

名残惜しさが胸に巣食いながらも視線を反らす事で想い振り切ると、最後にモモの手を握り占める。

冷たいその感触をしっかりと覚え、良輝はもう振り返る事無く建て付けの悪い玄関を飛び出したのだった。