黄昏の月   試し読み [本文より抜粋]


 マンションという名の低層アパート。二○三号室のチャイムを鳴らす。それでも待てないと、梅沢が扉を拳で五度程叩くと、ようやく反対側から鍵が解錠される音が聞こえた。
「やった。柚希[ゆずき]起きてた」
「風呂上がりなんだけど。それをどんどんうるさいよ」
 言葉通り風呂上がりらしき、米田柚希[よねだ・ゆずき]が、ボクサーブリーフにTシャツだけの格好で玄関から顔を出した。髪は濡れて頬に張り付いているというのに、シルバーフレームの眼鏡だけが堅い印象で不釣り合いだ。
 眉間に皺を寄せる柚希に、梅沢は作ったようにニッと笑った。
「ちょっとさ、金貸してくんない?」
「はぁ? また? 嫌だよ、俊樹にお金貸したら返って来ないだろ」
「そう言わずさ。今回はマジでちゃんと返すから。今回で最後にするからさ」
「それ、毎回言ってる」
「本気、今回はちゃんと返す。十万、いや五万でも一万でも良い。お願い」
 額から汗を流し、髪は乱れている。今己がどのような格好をしているのか梅沢は分かっていない。そのような事はもはや関係なく、今目の前にある事だけが大切だ。
 本心は別にある。けれどそれを露わに出来なくて、軽い声音とニヤニヤとした軽薄な表情しか浮かべられない。
 きっと、梅沢がどのような感情を持ってここに居るのか柚希には分からないだろう。おおよそ、想像もしていない心境と、考えも出来ない状態を通って来た。
 それを今伝えようとは、走って来た道すがら、どうにも思えなかった。
「他に頼れる奴、いねぇんだよ」
「嘘ばっか。彼女だって、仕事の仲間だって居るだろ」
「ないない。あいつらなんてお前に比べたら他人も他人だって」
「いっつもそうやって、お金借りる時ばっかり調子良い事言うんだから。もう何年のつき合いだと思ってんの?」
「高校の時からの親友。だから知ってんだろ? 俺にはお前だけだって」
 今や仁王立ちになる柚希に、梅沢は頭の上で両手で拝むようにしながら頭を下げる。
 そうすると頭上から聞こえるような自身の声は、どう聞いても軽薄そうなそれだ。
「あぁあ。僕がきっぱり出来ないまんま、この関係が十年近くも続いて来ちゃったんだろうな」
「お願い。柚希、柚希ちゃん。どーしてもお願い。あ、そうだ」
 頭の上で拝んでいた両手を、パンと一つ鳴らして解く。
 現在所有している物は、身につけている着古した衣類と薄く中身も軽い財布に充電が切れた携帯電話。それから、唯一のアクセサリーである、左の親指にはめられた太目のシルバーリング。
 何かを思い出したかのようにそれを外した梅沢は、光沢などとうの昔に忘れ去ったその指輪を柚希へ突きつけた。
「これ、カタにこれ置いていくから。な?」
「はぁ? 本気で何言ってんの?」
「何って、これ俺が一番大切にしてる物ってお前も知ってるだろ? それ、置いていく。だから今回だけ、金貸して!」
 指輪のなくなった梅沢の親指には、くっきりとした指輪焼けの後があった。先の夏は一度も指輪を抜かなかった。それだけではなく、覚えている限り何年も、その指輪を抜いていない。寝るときはもちろん、風呂に入る時もはめたままで、思えば所有物の中で一番長い付き合いだ。
 その指輪を胸に突きつけられ、少しの間を空け柚希はそれを取った。
「ずっとつけてるだけだろ。それにこれ、いつだったか僕と一緒に買ったやつ。僕も同じ物持ってるのに、カタもないよ」
「そう、柚希と買った奴。俺は覚えてるって。高校の修学旅行で、初めて東京に来た時」
「そ、そうだっけ? それにしてもだって」
「学校のルール通りの小遣いしか持って来てなかった柚希は金足りなかったからさ、数万持てった俺が足りない分出したんだって」
「その足りない分が、金額の半分以上だった」
「覚えてたのか?」
「……そりゃ、俊樹より記憶力には自信あるし」
 じとっと梅沢を見ていた柚希が、ふと肩で息をついた。疲れたような、諦めたようなため息。
 それを感じて恐る恐る彼を眺めると、眉間に皺を寄せた柚希はもう一度盛大なため息をついてみせた。
「あーぁ。ほんと、僕って駄目だな」
「柚希?」
「本当の本当に、今回で最後だからな。それから、今だったら十万なんてとてもじゃないけど財布に入ってないからな」
「あ、ありがとう。マジで。ほんと、ありがとう」
「待ってて。取ってくる。それから、指輪は預かっておくからね」
 梅沢よりも随分と細い肩を翻し、柚希は玄関から部屋の奥へ入っていく。それを梅沢は、ただ眺めていた。
 視線が離せない。離してはならない気すらしてしまう。それが何故なのかは、知りたいようで知りたくない。
 一分か二分か、もしくはもっと早くか。
 梅沢に時間の感覚がなくなった頃、パンツの上にハーフパンツをはいた柚希がむき出しの紙幣を片手に戻った。
「四万。これが精一杯」
「ありがと。ありがとう。すっげぇ助かる」
「どうせギャンブルでもするんだろ」
「しねぇって。今回はそんなんじゃないんだって。絶対返す」
「どうだか」
「返すって。だって、その指輪返してもらわないと困るし」
「あんな修学旅行土産、どうでも良いんじゃない?」
「バカ。俺には大切なもんだって」
 それは、本当だった。上辺だけ繕った表情と声音だったとしても、それだけは紛う事なく、梅沢の本心だ。
 柚希の手から紙幣を受け取る。
 独特の紙の手触りが、指と手のひらに伝わった。
「ありがと。助かった。俺もう行かねぇと。じゃな」
「たまにはお酒飲むくらいゆっくり来てよね」
「あぁ。またな」
 また。それが実現すれば良い。そうすれば、いくらでも酒を飲み交わせるのに。
 しかし「また」があると、今の梅沢には確信を持てない。
 深夜に近いアパートの階段を駆け下りる。
 今は少しでも此処を離れなければ。足取りを追われる。それ以上に、柚希には迷惑を、これ以上かけたくはない。
「女なんて、いねぇつぅの」
 先程言われた言葉が、些細な筈の言葉が、やけに印象深く梅沢の頭に蘇る。
 息が切れる程走り、一駅離れた頃、足を止めた梅沢は力ない街灯と月明かりとだけが周囲を照らす中、電柱にもたれるよう歩道に座り込んだ。