寄せる心に零れ落ち   試し読み [本文より抜粋]



東京都内・某所。

緑取り囲む膨大な敷地の、更に中門の中に建つ日本家屋。手入れの行き届いた日本庭園を望む部屋に、太陽の日差しが降り注ぐ。

「よぉ学。見るたんびに一端になってやがるなぁ。今度はなんだって? 噂は聞いてんぞ」

襖を取り払い三部屋を一続きとした部屋に、中央を向かい合うように膳が並ぶ。重箱の中に収められていた色取り取りの細やかな料理は、どの箱の中も空になりつつある。

進むのは箸よりも猪口という頃合いになると、中里学[なかざと・まなぶ]の前や左右に一息つく間もなく男達が立ち替わった。

「山村の兄貴。俺の噂ですか? それはどんなもんでしょうね。聞くのが恐ろしい」

「なぁにが、『恐ろしい』だ。あぁ、確かに恐ろしいだろうよ。けどな、恐ろしく思うのはお前じゃなくてこっちだ」

山村と呼んだ中年から高齢に差し掛かる年齢のが中里に徳利[とっくり]を向ける。言葉ないそれに応えるよう猪口を差し出すと、山村は静かに酒を注いだ。

「瀬能組[せのう]だ。関東じゃぁうちに次いでの組織だ。まぁ、うちに次いでって言ったとこで、『うち』とじゃぁえらく格差はあるだろうが、その代わり東北の端まで息が掛かってるらしい。その瀬能の組長と、兄弟の盃交わしたって言うじゃねぇか」

「なるほど、その噂ですか。それは正真正銘の噂、ガセですよ。俺は瀬能組の組長と盃なんて交わしてません。だいたい、俺は香坂の兄貴と交し合ってる」
「そりゃ、あぁ、そうだが。そうなんだがよ」

「瀬能組とは、ただ同盟を結んだだけですよ。それも、『うち』じゃなくて俺のところだけだ。噂につく尾ひれは恐ろしいもんですね」

「……同盟。そりゃまた、大層なこった。やっぱりあっちの噂は伊達じゃねぇんだな」

「まだあるんですか、噂とやらは」

「あぁ、あるさ。『今や宮川の新進、霧島組』ってな」

山村が猪口をぐっと煽る。真面目腐ったその口調に、中里はただ笑みを浮かべるしかなかった。

宮川組[みやがわ]直系・霧島組組長。それが、中里の背負う肩書だ。

宮川組は関東の大組織であり、系列組織は四次や五次まであるという。その全てを把握出来ない程広大であり、それに見合った勢力を誇っている。

それだけの数の組織が集まれば、様々な面で大も小も出てくるものだ。その中で霧島組は、近年飛躍的な成長で「小」から「大」へと立場を変えた。

組長の代替わりに伴う組織内の世代交代。赤貧組織として看板の存続も危ぶまれた霧島組をここまで立ち直らせたのこそが、中里であり三代目霧島組だ。

「後は、こんなのもあるぞ」

「そんなにですか」

「『霧島の組長巡って女が取っ組み合い、男が殴り合い』てな。女だけじゃなく男にもモテるらしいじゃねぇか。さすがだね、伊達男。お前みたいなのを今は『イケメン』って言うんだろ?」

山村がさも冗談めかした口調で笑うので、中里も今度はもう、苦笑しか浮かばない。

中里は三十四歳。身長百九十センチを越える長身で、骨格もさることながら纏う筋肉も立派な肉体を誇っている。

半分に減った猪口を煽る。空になったそれを手酌で足そうとしたが、中里を遮るように山村が徳利を持ち上げた。

「宮川の霧島の組長ともなりゃ、選び放題ってか」

「さぁ、噂ですよ。それに男にモテたって嬉しくない」

「まぁ、そうだな。男にもてたってなぁ。じゃぁお前も、お前んとこの遠藤にも男の妾が居るってのも単なる噂だったんだな。いやまったく、人は好き勝手言いなさるもんだ」

「本当にそうですね。男の妾なんて囲ってませんよ」

「だなぁ。妾は金積んででも若い女に――」

「男の情人はいますが、あいつは囲わせてくれるようなたまじゃないんですよ、残念ながら。後はどこの誰にモテようが興味がないですね」

中里の言葉に、理解が追い付かないのだろうか。呆けた顔の山村が、一瞬手を止める。まじまじと眺められるのを気にも止めず、中里は手の中の猪口を煽った。

男も女も囲うつもりはなく、興味もない人間に言い寄られるのは誰であれ面倒なだけだ。

一人の男の顔が、ふと瞼を過ぎる。今朝別れたばかりで夜会えるだろう面もち。つい緩みそうな頬を、中里は唇を僅かに歪めるだけに止めた。

組織内で隠してもおらず。隠す価値など考えている、最愛の恋人。

「中里、お前――」

「おぉ、学。さっきから忙しそうじゃねぇか。山村、あっちで陣内が呼んでたぞ」

そうしていると、物思いを蹴破るように頭上から降り注がれた声は、すぐに中里の隣に腰を下ろした。低く深い声。独特のそれに顔を見ずとも分かった人物は、予測に違わない。

「ご無沙汰しています、鈴村の兄貴」

「ご無沙汰だなぁ。お前が忙しそうだからな」

「またまた」
「そ、そうか。なら、俺はこれで……」

視線を惑わせながら立ち上がる山村は、その様がどこか滑稽で中里は喉の奥がクッと鳴った。

交錯する噂に真実が見えなくなっていたのだろう。この世界では非常に愚かしい事だが、それが山村という男の程度を知らしている気もした。

「何の話してたんだ?」

「色の話ですよ。うちの奴が可愛いっていう」

「なんだノロケか。そりゃぁくだらんわけだ」

「そうですね、くだらないノロケです」

軽い口振りの鈴村に合わせ同じように笑う。

宮川組には大もあれば小もある。急速な成長で大きくなる霧島組に媚びを売る者はいくらでもいた。だが、ただ押さえ込み、潰そうとする者も大勢いるのも事実だ。

宮川組定例会。

用意された酒がなくなった頃、宮川組長の号令によりお開きとなった。