溺愛唯心論   試し読み [本文より抜粋]



 夏も盛りの日差しがリビングルームに差し込む八月後半。三城恭一が書類を広げたダイニングテーブルに向かう中、いかにも退屈そうな顔をしながら、三城春海がソファーにもたれ掛かりタブレットパソコンを片手にしていた。
 お盆も過ぎ三城は二週間の休暇になっている。けれど休みになってからここ一週間、彼はずっとこの調子だ。
 顔を上げると見える彼を気にしないつもりだ。けれどそう考えれば考える程気になっていく。
 授業予定を何度も練り直している書面へボールペンを向ける。しかしやはり気になってしまい、恭一はそろそろと顔を上げた。
「ねぇ、春海さん」
「何だ」
「僕の事は気にしないで出かけて良いよ?」
「一人で出かけたい場所はない・・・と、毎日言っているだろ」
「そうだけどさ」
「いい加減しつこいぞ」
「しつこいって・・・そうかもしれないけど」
 吐き捨てるような三城に恭一も眉間に皺がよる。
 彼の言う通り、毎日同じ事を言っている自覚はあるし、毎度三城が同じ返事をしているのも分かっている。けれど恭一からしてみれば、そう言わせてしまうのは三城にも原因がある。
「だってさ、毎日退屈そうだから」
「気にするな」
「気にするよ」
 ただ退屈そうなだけならばまだ良い。しかしこうもあからさまに不機嫌そうにされていては、気にするなという方が無理だ。
 退屈そうにしているのは、三城が休みで恭一が自宅で仕事をしているから。不機嫌なのは、当初の予定とは異なりサマーバカンスを楽しめないからだ。
 勤めている高校が夏休みに入り暫くして、恭一は虫垂炎つまるところ盲腸炎になった。一週間の入院が、恭一の夏休みに変わってしまった。
 三城とのバカンス予定は白紙になり、彼が休みとなってもこうして仕事を続けている。
 高校教師一年目。教えるという意味では予備校講師時代と同じに思えるが、授業スケジュールやテスト制作など、同じ事をしていてもまるで違っており、何もかもスマートにこなせなければ、何が正解なのかも見極められないでいる。土日を返上してもこのありさまだ。
「……春海さんは、仕事ないの?」
「ないから休んでいるんだ」
「だよね」
 外資系企業、それも日本支社のナンバーツーを勤める彼はしっかり二週間の休みを確保しているし、それは七月の初めから伝えられていた。仕事の話しはあまり聞かないものの、プライベートでも隙なくやり手を思わせる彼は上手く調整をしているのだろう。
 交際一年を過ぎ、同棲や容姿縁組みをして数ヶ月。卑屈になりはしないが、彼との差を突きつけられる日々だ。
 今恭一を悩ませているスケジュール調整にしても、きっと三城ならばたとえ一年目でも悠々とこなしていただろう。
「ごめんね。夕食はちゃんと作るから」
「そう思うなら夕食くらいデートに誘ったらどうだ」
「デート?……に出かけたら、帰り遅くなるし……」
 三城の事だ、ついでにホテルに泊まるとも言いかねない。
 自身が出来る事は、当然他人も出来て当たり前と考えている。努力しても出来ない人間が居るとあまり理解してもらえず、彼のハードルは高い。夜からデートしアルコールも飲みホテルに泊まる。その翌日朝から、普段と同じように身体が動いてくれないなど、三城に言ったところで伝わらないだろう。
「あ……毎日三食僕の料理ばっかりじゃ飽きた?ごめんね」
「誰もそんな事を言っていない。ただ恭一にも楽をさせてやろうと思っただけだ」
「ありがとう、春海さん。なら……あの、近場なら……歩いていけるような……」
「そうか?なら、確か近くに三ツ星レストランがあったな。仕事で訪れた事はあるが、引っ越してから行っていないから調べておく。今から予約が取れそうならそこに行く」
「え?三ツ星?普通の、ファミレスとかでも……」
「そんなものを俺に食えと?」
「……ごめんなさい」
 三城と恭一の差は仕事の出来や地位だけではなく、否そこに関係をしているのだろうが、収入そして金銭感覚の大きな差だ。
 三城が用意をした二人の愛の巣は六本木。ファッションセンター?とオフィスフロア?とマンションが一つとなっているビルだ。徒歩圏内に三ツ星レストランがあっても不思議はない。
 以前は、デートといえば三城のオフィス、自社ビルがある新宿ばかりであったが最近は六本木が増えている。三城が気に入る店がこちらに増えたのかもしれない。
 デートプランに恭一の意見を重視される場面は極めて少ない。
「三ツ星、かぁ……」
 ならばラフな服装で出掛けられる筈もなく、フォーマルに着替えるのも恭一にすれば面倒だ。それも三城にとっては何という事もないのだろう。
 正直、デートを喜ぶ気持ちよりも面倒な感情が勝ってしまう。
 口にせずとも、それが顔に出ていたのだろうか。手にしていたタブレッドパソコンをソファーの上に置き、三城は元より不機嫌そうであった面持ちを更に渋く歪めた。
「そんなに、俺と出かける事に乗り気しないか?」
「え?そんな、そういう事じゃないんだけど。そりゃ僕だって、夕食作らなくて良いのは嬉しいし、外食も嫌じゃないんだよ。春海さんと出かけるのが嫌なわけじゃもちろんなくて。ただえっと・・・」
 ラフな部屋着からフォーマルに着替えるのを面倒に感じる。書類に向かっていたところから突然三つ星レストランに向かう気持ちの切り替えが困難。更には、食事とアルコールに数時間を取られるだろうと考えると辟易としてしまう。
 それだけだ。
 ただ、この一週間、三城が退屈そうにしている事はよくよく知っている。それだけに、恭一も強くは言えなかった。
「春海さんと、出かけるのが嫌なんじゃないんだけど、ただ仕事・・・してしまいたいな、って」
「適度な休息はより効率を上げる」
「春海さんはそうかもしれないし、そう言われてるのも分るんだけど、こう・・・きりがつくまではさ」
 あまり気を抜きすぎたくもなかった。真っ直ぐに注がれる三城の胡乱な眼差しが辛い。恭一とて三城とデートをしたくないわけでは決して無い。出来るならば出かけたいし、気を休めたくもある。けれど仕事とプライベートをきっぱりと分けられる三城とは違う。
 彼の視線が辛いがそらす事もはばかられると、恭一は誤魔化すように笑みを浮かべた。
「で、でも今週中には一旦きりがつくから。まだしなきゃいけない事もあるけど、二日か三日は時間取れるから。・・・それじゃ駄目?」
 三城の眼差しが恭一を値踏みする。少しの間じっとりと恭一を眺めた彼は、一つ肩で息をつくと瞬きをしてその瞳を和らげた。
「・・・分った。今日近場で済ませば、二日は必ず空けられるんだな?」
「が、頑張る」
「なら、一泊二日で出かけるぞ」
「え、一泊二日?」
 そこまでは、考えていなかった。
 二日の休みをどのように使うかなど明確なプランがあったわけではない。けれどどこかいつもと同じように、自宅でのんびりと過ごしたり、買い物に出かけたりとする程度だと思っていた。
 驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた恭一に、けれど三城は意に介さず、さもなんでもないとばかりにソファーに座り直した。
「元々バカンスへ出かける予定だっただろ。それが無理になったのだからな。一泊二日なら精々国内だが仕方が無い」
「・・・ごめん、僕のせいで」
「恭一が悪いわけじゃない」
 確かにその事で三城が恭一を責めた事はない。しかし今にしても、彼の言葉も声も、嫌味しか籠もっていないようだ。それだけ彼は、恭一とのバカンスを楽しみにしていたのだろう。腹立たしさは感じず、ただ申し訳のなさばかりが浮かんだ。
 けれどその時だ。言葉を続けられない恭一に、三城は柔らかく眼差しを細めた。
「どこに行きたいか考えておけ」
「え?僕が決めて良いの?」
 デートプランは九割九分と言って良い程三城が決める。そこに恭一は不満もなく、いっそ当たり前のように感じていた。博識でプライドも高く拘りも強い三城は、恭一の知らない物を多く知っていて、それでなければ満足をしないのだと思っている。
 それだけに、三城の提案は驚きと共にとても嬉しく、そして優しさを感じた。やはり三城は、恭一の事をよく考えてくれているのだろう。
「あぁ。折角の夏休みだ。恭一の行きたいところに行って、食べたい物を食べさせてやる」
「ありがとう春海さん。うん、考えるよ。それから仕事も頑張るよ」
 想像をしていなかった唐突な宿泊デート。恭一が場所を選ぶという珍事。何よりも、そこから感じられる三城の思いが嬉しくて仕方が無い。
 どこに行き、何をしようか。三城と何を見て、何を感じたいか。想像をするだけで胸が熱く高鳴る。
「楽しみだな」
 ふと笑った三城が、それまでの不機嫌さが嘘のように優しかった。