やっぱり好きな人・編・03



 今夜は帰れないと言っていた。期待など微塵もしていなかった。
 けれどそこで革靴を脱いでいたのは、三城以外の何者でもない。
「春海さん、おかえり。……どうして? 今日は帰れないって」
「ただいま、恭一。あぁ、後で会社に戻るが……シャワーと着替えをしに戻った」
「そうなんだ。」
「着替えも無くなる程連日になるとも思っていなかったしな。急に帰って悪かった」
「悪いなんて、そんな」
 ここは三城の家でもあるのだから、いつ帰ってくるのかなど彼の自由だ。ただ、予期せぬ出来事に驚いたのは事実だった。
 聞きたい事、話したい事が沢山ある。主人の帰りを待ちわびていた犬のように、三城の帰宅が嬉しくて仕方が無い。
 けれど。
 恭一の横を通りメインルームへ向かう三城は、いつになく覇気がなかった。
 髪もスーツもネクタイも。どれもいつになくよれた印象で、疲れをひしひしと感じさせる。
 その三城に、雑談を持ちかけようとは思えなかった。
「春海さん、何か食べる? 作ろうか?」
「あぁ……いや、今は良い」
「そう」
 ドサリと、三城がソファーに腰掛ける。背もたれに身体を預けた彼は、首元のネクタイを緩めながら瞼を閉ざしていた。
 このような三城を目にするのはなんとも珍しい。どんなに多忙な日が続いていても、数日置きに海外出張が重なっても、凜とした雰囲気を崩さないというのに。ならば今は、余程疲労が溜まっているのだろう。
 だというのに、その三城にしてやれる事など恭一には何もないのかもしれない。
 料理は不要と言われた恭一は、一瞬辺りを見渡した後、それでもキッチンへ向かった。コーヒーならば飲むかもしれないし、手付かずになっても構わない。
 三城が帰宅したとなると寝ようとは思えず、かといって他にすべき事が思いつかなかった。
「春海さん、良かったらコーヒーでも飲んで。要らなかったら置いておいてくれても良いし」
 コーヒー粉と水をコーヒーメーカーに入れながら、声を張る。スイッチを入れて、食器棚からコーヒーカップを取り出そうとした。
「恭一、来い。そんな事は良いから、こっちに来い」
「え? ちょっと待って」
 やはり三城の声音には覇気がなくて。
 以前三城が揃いだと買って来たカップをコーヒーメーカーの隣に置く。そうして小走りに三城の元へ向かった。
「どうしたの、春海さん」
「座れ」
「あ、うん」
 じっとりとした眼差しを向けた三城は、吐き出すように告げる。
 機嫌が悪いという訳ではないのだろう。むしろ、機嫌の善し悪しにまで意識が向いていないようにも思える。
 大人の男でも四人は座れるだろう広い革張りのソファー。けれど拳一つ分の隙も作らず彼の隣に腰掛けた。
 けれど、チラリと恭一を見た三城は、何を言うよりも先に恭一の腕を掴むと、まるで力任せのようにそこを強く引いた。
「こっちだ」
「あっ」
「恭一。大人しくしてろ」
 三城の胸に、倒れ込む。ジャケットを脱いでもいない三城は、フレグランスよりも彼の香りを感じた。
 三城の腕が恭一の背に回され、妙な体勢のまま抱きしめられて逃れられない。腰を捻った体勢は身体が痛いが、恭一とて逃げたいわけではない。
 耳元で三城の深いため息が聞こえた。
「随分、疲れてるみたいだね」
「……あぁ、少しな」
「少しって感じじゃなさそうだけど。お湯を沸かすから、ゆっくりお風呂にでも入ってよ」
「そんな事より、恭一が足りない。もっと、こうしてろ」
「……うん」
 このような事で疲れなど取れるのだろうか。それよりももっと身体を休めるに有効な方法があるのではないか。
 そのように思考は巡り言葉が出かけたが、あまりに三城の腕の力が強いから。
 恭一もまた、両腕を彼の背に回すだけで、それ以上は何も言わなかった。
「もっとこうしていたいのだが、今日はあまり時間がない」
「そっか。もう、直ぐに会社に戻るの?」
「あぁ。二時半に電話が掛かってくる約束がある。此処で受けられれば良いんだが、社外秘のデータが必要でな」
「そんな真夜中に?」
「相手が海外だから仕方が無い。昼間はアジア圏を相手にしているから、それ以外は夜の時間の方が助かるとも言えるが……」
「そっか……」
 三城の仕事内容がどのようなものなのか、詳しくは知らない。何度か説明は受けたが、それでも全てを理解するなど出来なかった。
 ただ、彼の仕事相手が日本国内に止まって(とどまって)いないどころか、むしろ世界に広がっている方が多いらしい事はどことなく理解しているつもりだ。
 そして小さな島国で生きてきた恭一には想像も出来ない程、世界は広大で、三城の目はそれらを細かく見ていかなければならないのだろう。
「やはり、恭一は良い。疲れが取れる。だが……足りない」
「え? あ、ごめんね。あの、マッサージでもしようか?」
「そんな事は良い。……時間が無いのが惜しいな。立て、恭一」
 三城は、常に自分の中で何か考えが巡っているのだろう。
 まるで独り言のように呟きながら、三城は抱きしめていた両腕を離すと、恭一の二の腕を掴みながら半ば強引に立ち上がらされた。


  
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